名竿「孤舟」の秘密(6)

名竿「孤舟」の秘密(6)


 以上、旭匠さんの、作家精神について語ってきたつもりだが、これは、旭匠さんの天性の資質というだけではない。いつも、確実な理論によって支えされていた。

 理論といえば、へらぶな釣りの愛好者は、いつも、理論的な物いいをすることで知られている。ところが、旭匠さんはいう。

「へら師ほど、理論的でない人種も、珍しおまんな」

 つまり、ほんとうの理論は、あくまでも科学的にデータを集め、十分に演繹(えんえき)、帰納した結果でなければならない。単なる感想、思いつきは、理論ではないというのである。

 いいっぱなしの、書きっぱなし、ひどいのになると、恰も、魚の気持をきいてきたとしか思えないような、愛嬌さえも飛び出す。もともと、単なる思いつきにも、
理論の萌芽はあるのだが、そこをよりどころに、さらに、深く問いつめ、理論にまで昴める術を知らないというのである。

 旭匠さんの座右には、いつも、大きな黒板が置いてあった。談論風発の半ば、旭匠さんは、つと立ち上って、黒板に白く図を書いた。その図を、手の白墨で負い、叩きながら説明をする。

「水中の、この餌に対して、側方ないしは上方から、へらの吸込みによる力が働く。物体静止の法則からいって、あくまでも停止していようとする錘に対して、まず、錘の下部の、ハリスから鉤までの部分が、横に振られる。ここに分銅の理論が成立つ。しかし、横振れがある限度を越すにつれ、道糸には水圧がかかっているから、横の動きが縦の動きに置き換えられ、道糸を伝わって、浮子を上下動させる。これは、ぜんまい懸垂の理論である」

 すべてが、こんな風である。浮子に現われる魚信についての、このような考え方は、今でこそ目新しくはないのだが、実は、このようなことを理論で説明したのは、ふた昔も前、もちろん、旭匠さんがはじめてであった。釣師の頭には、魚が下の方から餌をひっぱるから、浮子が沈むのだというような、漠然とした錯覚があった時代のことである。

 旭匠さんの提唱する、「引き合せ」の理論もそうである。よく見かける風景だが、魚信に応じて、大きく力まかせに竿を煽る。すると、糸鳴がして、ガキッと手応えが腕にくる。その瞬間こそが堪らない、と説く釣師もある。しかし、旭匠さんを俟(ま)つまでもなく、へらぶなの口に鉤がかりさせるための操作としては、あまりにも常識外れの、大合せに過ぎやしないか、水中に沈んでいる竿先を、距離にして二メートル以上も、空中高く、いっきょに跳ね上げなければ、鉤がかりしないというのであろうか。

「合わせは、五寸ほど、手許へ引くだけで、十分である」

 これが、旭匠さんのいう、引き合せである。竿を煽る必要はないというのだ。モノコトの説明に、例の黒板が使われる。釣師が、魚信を待っている姿が、真横から見た形で描かれる。竿を手許へ引くと水中の穂先は、竿の弾力と水圧により、上方へわずかながら煽られる。道糸は、竿先の移動によって、水中を曳かれるが、水圧によって、道糸は、上の方が、弧を描く。下の鉤先は、上へ向って引き上げられることになる。鉤がかりのためには、二、三寸、鉤を引き上げるだけで十分ではないか。力の動く方向を各部分に、それぞれ、矢印で示しながらの説明だから、否応なしの説得力があった。

 関東の釣師にいわれるまでもなく、旭匠さんも、野釣りの研究をしていた。そのためには、こっそりと上京したことも、何度かある。しかし、研究の主体は、いつも、関西の釣堀であった。関東の釣師には、それが不満であった。

 干拓前の丸江湖へ、あるとき、逝くなった横井魔魚さんが、旭匠さんと息子を釣りに伴ったことがある。

「折角、横井さんがいうてくれはるものを、行かんわけにはいかんし、ほんまに、参りましたわ」

 釣果にめぐまれなかったからではない。釣れても釣れなくても、丸江湖の釣りからは、確乎としたデータが抽き出せなかった困惑である。つまり、野釣りというものは、あまりにも対象が、広範、複雑で、そこから、理論を組立てるには、あまりにもデータが多すぎる。おそらく、一生かかっても、データの過多に振り回されるだけで、せいぜい、漠然とした経験主義に行きつくのが落ちではないか。魚の気持は、人間に分る道理がない。それでいて、釣りをするのは人間である。人間が、どこまでも主体性をもって理論を組むとなると、いっそ、釣り堀で十分ではないのか。なるほど、魚がちがうかも知れない。しかし、釣り堀の魚の方が、すれていて、なかなか、釣師のだましには乗ってこない。ひとつの魚を対象にした場合、釣り堀の魚の方が、はるかに手剛い。しかも、数が釣れることによって、データを沢山得られる便利がある。そこで得た理論を、野釣りに及ぼすことはできるが、その逆は、不可能である。これが、旭匠さんの考え方である。旭匠さんが、いかに理論的であろうとしたかが、私には、よく、うなずけるのである。私たちの釣りは、ほとんどが経験主義であり、もともと、釣りというものは、そのようにして行われるのが普通である。なぜなら、一枚でも多く釣りたいからこそ釣るのであり、そのためには、経験上、できるだけ有効な方法を考えるのは、まことに自然ねことであるからだ。しかし、経験主義は、ともすると、結果論的な、結果のあと追い競争となりやすく、とかく、理論から遠ざかりやすい。

 たとえば、餌についてだが、近頃は、応接にいとまもないほど、多種多様の餌が出回っている。ある会では、「○○」の餌が最高といわれ、会員のほとんどが、「○○」を愛用している。ところが他の会にいわせると、「○○」は最低ということで、「☓☓」が最高の人気をもっている。それぞれに、良いといい、悪いという理論的な根拠をあげているのだが、冷静にきいていると、単なる流行、附和雷同に聞こえる場合が少くない。

 孤舟に、硬式、軟式とか、あるいは、百舌(もず)、鶺鴒(せきれい)、小々波(さざなみ)などの表記があることは、あまりにも有名だが、これも、実は、旭匠さんの理論から出ている。外国の釣糸は、日本の、一号、二号とちがって、必ず何パウンド・テストと表記されている。つまり、この糸は、何パウンドまでの魚なら、絶対に切れませんという、メーカーの保証である。日本では、釣師自身の判断にまかせている。旭匠さんは、いつも、へらぶなの大きさ、重さを問題にしていた。目下のところ、へら竿は、一応、極小から極大まで、ひっくるめてカバーするものとして、作られているが、厳密にいえば、やはり、釣物に応じて、竿を使い分けることが正しい。釣糸に何パウンド・テストの保証をするよりも、むしろ、竿自体にこそ保証をつけるべきではないかということが、旭匠さんの狙いであり、孤舟に刻まれた標記は、そのためのものと見るべきである。したがって私たちは、それを目安にして、たとえば、小物釣りには軟式小々波を、大物狙いには、硬式鶺鴒を、といった具合に、使い分けるのである。決して、調子の差についてだけの、標記ではないと思う。

 旭匠さんの死を悼むのあまり、長々と、おもいつくままを語ってきたが、まだまだ、いい尽したとは思えない。ただ、釣師としての、同時に、竿の作家としての旭匠さんが、終始、炎のように燃えた、その生き方については、いささか、語り得たのではないかと思う。旭匠さんの、偉大な足跡については、また、別の人が、別の角度から、十分に語らなければならない。

 名竿孤舟は、今後も、理想の弟子である息子さんたちによって、受け継がれ、作られるであろう。しかし、たとえ、親子、師弟であっても、作家は一代限りのものである。師匠のあとを継ぐだけでは、ただの二代目である。師匠とは全く別個の、独立の作家として、改めて、自力による開拓、創造を為し遂げねばならない。孤舟以上の孤舟をつくることが、ほんとうの二代目の責任であろう。息子さんたちの精進に、大いに期待したいと思っている。