江戸前の釣り(2)

青ぎすの脚立釣り


 砂町から浦安へ抜ける途中に、葛西橋があった。人からきいたのが病みつきで、終戦直後よく通った。橋桁にからんでいる黒鯛が狙いなのだが、せいごも釣れた。橋はまだ木造であったと思う。

 頭上に電線が走り、頭上投げが出来ないので、欄干から、真直ぐ下に向けて竿を垂らし、大きく反動をつけて下手投げで振りこむ。夏の夜の、涼みがてらの釣りで、多いときは三十人程も並んだ。橋の欄干に立てかけた竿先には、鈴をつけておき、魚信は音でとるのである。気長な釣りであった。釣師は思い思いに入り乱れ、夏の夜話である。見る阿呆の涼み客も加わった。まだ車の少い時代であったが、けたたましい警笛を鳴らして、ひとの背中すれすれに車が通り過ぎる。そのたびに、さんざめきの輪がほどけ、また、輪を結んだ。ようやくのことで、鈴音が鳴る。すると、全員がその竿にかけつける。野次馬の歓声につつまれて、魚が踊りながら上がってくる。運がいいと、尺物の黒鯛が五、六枚は上がった。もちろん全員合わせての勘定だから、殆どがあぶれで、まことにのどかな釣りであった。
 しかし、この黒鯛釣りは、江戸前とは言わない。江戸前とは、江戸のすぐ前の、沖釣りのことを言うのである。

 浦安沖の、青ぎすの脚立釣りこそは、伝統的な江戸前の釣りであった。関西にも、この脚立釣りがあり、倉掛けと呼ぶそうだが、詳しいことは何も知らない。

 船が宿を出るのは、まだ暗いうちの早暁である。釣場に付くと、海中に脚立をたて、その上に一人ずつ、客をおろして行く。海の上の、岡釣りである。青ぎすが釣れるまでは、長びくを海中におろさない約束になっていて、目的魚以外の外道は、決して、びくに入れない習慣であった。それが、船頭にとっての目印で、釣れない客のためには、場所移動を行うのである。非常にむずかしい釣りで、ひと口に言うと、極端な早合わせに手練を要した。はっきりした魚信を待っていては、もう間に合わないのである。滅法、引きが強く、釣れた感触は抜群であったが、私など、何が何やら決め手のないままの盲合せで、釣れても釣れなくても、もうひとつ合点が行かないままに終わった。とても、ひとに能書を並べる資格はない。ただ、釣りの情緒だけは卓抜であった。

 ときは、初夏のはじめ、青ぎすの乗っ込みである。朝が特にいい。脚立の上にただひとり置き忘れられた孤独感。ひょいとした糸ふけも見逃すまいとして釣糸を見つめていると、波のまにまに、自分がたゆとうているような、妖しげな眩暈(めまい)をおぼえてくる。自分は、脚立の上の岡で動かない。動いているのは、水である。その水が、爽やかな潮の香に、きらきらと輝いている。まだ工場は少く、空も水も美しかった。いつ頃、誰が編み出した釣法かは知らぬが、いかにも、江戸の丁髷(ちょんまげ)が似合いそうな、いなせな雰囲気が、まだ、十分に残っていた。