落水記(4)

だんごや

「だんごや」というのは佐原の横利根にある、中島屋という釣宿のことである。古い店で、先代が、団子や寿司を売っていた頃の通称が、今にもちこされて、一種のペットネームになっている。昔は、水郷大橋をわたると、右に横利根、左に、西代(にっちろ)の江湖をはじめ、バナナ、小バナナなど、一面の水郷地帯で、いかにも水郷に来たという実感が湧いたものである。
 戦後、一時、釣師はほとんど影をひそめ、だんごやのおやじは、ひどい営業不振に悩まされたが、
「辛抱辛抱、いまにきっといい日が来る」
 と励ましたのは、古い釣師たちである。横利根には、他に釣宿がなかった頃のことで、さぞ心細いことであったと思うが、利根の本流との間を仕切る閘門から、大通まで、僅か一キロ余りの間に、今では十数軒も釣宿があり、思い思いの個性で常客を呼んでいる。
 私は、正月の休みには、暮のうちから泊りこみ、元旦の日の出は必ず水の上で拝んだものであるが、釣師の増加は凄まじいばかりで、私が、初釣りの行事を断念してから、もう八年ほどもたつ。
 もと、私は、佐原市内の旅館を常宿にして、本流の尺ばや、せいご、向う地の真鮒を釣っていた。行きつけると、そこへばかり行くのが癖で、それだけ、だんごやとは、つき合いがおくれた。佐原の宿は、もともと割烹旅館で、先代が釣気狂いにのため釣師の面倒見がよく、釣宿を兼ねていたが、大学出の銀行員が跡をとってからは、釣師から見ると、何かと不便もあった。そこへ行くと、だんごやは純然たる釣宿で、衰運を盛りかえそうと必死のサービスであったから、自然、私もだんごやを根拠地とすることになった。

横利根川には、当時ほどではありませんが、釣宿が何軒も残っています。だんごやも健在で、現在では中華料理の店などもあり栄えています


 その頃は、岡釣りが一般で、船頭付きの釣りは、いささか、殿様釣りに見えていた。だんごやには、常時、十人ほどの船頭衆が動員出来た。船頭といっても、殆どが、農家の旦那衆で、釣り好きのところから、農閑期の冬場だけ、客を相手に、寒鮒の並べ釣りなどをやっていた。私の馴染は、吉田さんという船頭で、村の役職をいくつも兼ねている名士であり、旦那面の釣師よりも、遥かに裕福であった。へらぶな釣りが、徐々に浸透しつつあった頃のことで、へらぶなについては、船頭が客から習う恰好もあった。

 もともと私は櫓が得意で、手賀沼には、自分の釣舟を持っていたが、水郷の釣場に明るくなるにつれ、自分船頭でなくてはおさまらなくなり、船頭衆の持っているのとそっくりの豪華船をつくって、だんごやに預けた。釣りの往き帰り、船頭衆と船を並べ、冗談をかわしながら櫓をやる気分は、格別であった。いよいよ、へらぶな釣りが全盛となり、船釣りが常識となる頃には、自家用船も増え、貸し船も増え、船を操作できない釣師は、へら師に非ずとまでなった。

 寒中の横利根で、どんぶりこをやったことがある。フロイドによると、水に落ちることは、性の恍惚を意味するらしいが、まさか、恍惚をもとめて落水するわけではない。しかし、案外、悪い気はしないものである。

 船を水上に固定するには、二十尺からの長い河岸棹を、辺地(へち)近くに深く突きさし、一方の端の舷に結ぶ。舳先(おもて)と艫(とも)に一本宛、船の横振れを防ぐためには、もう一本、どちらかの棹に交叉してさせば万全としたものである。

 私は用心深いというか、いつも力一杯に河岸棹をさすのが癖で、一日中抜けてこないのは有難いが、さて釣りを仕舞う段になると、抜くのに骨が折れる。そういうときには、ちょっとしたコツがあるもので、棹を握ったまま、足で船を遠くへ蹴り、船の反動を利して一挙に引き抜く。それをやり損なったのである。船は足をのせて遠去かるが、棹は両手でつかんだまま抜けて来ない。手を離せば水に落ちる。足で引き寄せようにも、船は戻らない、いやでも、落水ということになった。

 濡れ鼠のままだんごやまで漕いで帰ったが、意外なことに、少しも寒くなかった。

「寒中水泳も、たまには、よかっぺさ」

 ぽんぽん言いのおかみが、けたけた笑いながら、早速の気転で、風呂を沸かしに走ってくれた。

 防寒用の衣服は、厚い肌着よりも、薄いものを沢山重ねた方がよいとされているが、水は、すでに、たっぷり肌に透っていて、手早く脱ごうとするのだが、ぺったりと体に貼りついて思うにまかせない。たちまち、熱病のような恐ろしい慄えがきた。炬燵へ入り、頭から夜具をかぶったが一向に慄えはとまらない。風呂へ入って漸く人心地に戻ったことである。

 着て帰る衣服には困った。あり合わせのものでよいというのに、わざわざ、箪笥の奥から、とっておきの冬のメリヤスなどを持ち出してくれたが、だんごやのおやじは、私に比べると遥かに小作りで、無理に着てみたものの、体を動かすたびに、あちらこちら、びりびりと綻びる音がする。さんざん布が裂けたところで、漸く寛闊な着心地となったのは、全く滑稽であった。

 もう一度は、もっと醜態であった。釣舟には厠がない。日本男子の特権で、舷に立って水の上へ放つのだが、上品好みの私は、かねて、長い竹筒を用意してあったから、筒の先を水にもぐらせておけば、音も立てずに事をすませることが出来た。たまたま、そのとき、大きな、二階建ての遊覧船が通りかかったのである。さほど広くもない川幅に、遊覧船の曳浪(ひきなみ)の大きさは、釣船を木の葉のように翻弄してくれる。

「この野郎!」

「畜生め!」

 気の早い釣師は、大声を上げて怒鳴りつけたりする。私は用事もそこそこに、あわてて仕舞おうとしたのであるが、ぐらりと大きく船が傾き、舷に立っていた私は、竹筒っぽ片手に水に落ちてしまった。幸い、夏であったから、私は悠々と裸になり、前に手拭いをかけて釣りをつづけ、夕方には、シャツもズボンも、めでたく乾き上がっていた。

 落水といえば、だんごやに、カズオという、五つくらいの子がいた。これが、昼になると、一人で船を漕いで弁当を届けてくれる。櫓の命綱が背丈よりも長く、両手を頭上にあげて櫓を操るさまは、まことに可愛く、生意気であった。ある夕方、潮来に往った帰り道、エンジンの舵をとっていたおやじが、ふと気付いてみると、そばにいる筈のカズオがいない。そういえば、たったいま、何かが落ちる気配があった。おやじは、エンジンをとめ、盲滅法、水底深く飛び込み、浮き上がっては、またもぐった。すると、おやじの足に、しっかりと抱きついたものがある。カズオであった。奇跡的な生還をとげたその坊やが、いまでは頼もしい若者になり、東京で修業を積んだあと、近く、一本立ちの板前として上方へ旅立ちをするという。

 二つ年上の兄ちゃんは、今千葉の方で、中華の板前をやっている。さらに二つ上の長男は、五年ほど前に嫁をもらい、すでに女の子の父親である。

「選挙のアルバイトに行ってよう、そこで嫁さん、目つけてきただよ」

 恋愛結婚である。今は、この長男が、団子屋の稼業をついでいる。

 一番上の長女は、釣師に見初められ、水天宮の煎餅屋さんに貰われて行った。だいぶ前のことで、もう、二人の子供がいる。

 酒好きのおやじは、朝から赤い顔で、人の善い顔をほころばせているし、働き者のおかみは、相変わらずの、ぽんぽん口を叩いて、威勢がいい。まことに天下泰平である。

 もう一昔も前、私は、のれんを贈った。


  夢に見てさえ

  横利根の

  へらも

  だんごやも

  よい

  よい

  よいな



 色は褪せたが、のれんは、いまだに、だんごやに飾ってある。白抜きの字は私が書いた。詩は、水郷の詩人、関沢潤一郎さんにつくっていただいた。