船と水

船と水

 釣りの嫌いな人は、まず、ないように思う。何か特別なことがない限り、釣りに深入りする素質は誰にでもあるとみえて、ふだん見向きもしないひとでも、いざ機会があって、現実に魚を釣り上げたとなると、その喜び方は、まるで子供のように華やかである。要するに、きっかけがあるかないかのことで、そう考えると、人間というものは、きっかけ次第で、あちらにもこちらにも向く、随分、いい加減なものだということにもなる。しかし、釣りに限らず、人との出会い、事件との遭遇など、人生のすべては機縁によるのであって、だからこそ、人生の意味は深いと説くひともある。
 私はもともと、釣りが嫌いではなかった。しかし、ほかにもやりたいことが沢山あり、特に釣りを追い求めることはなかった。戦後、ある忌まわしい事件があり、目の前が暗くなる毎日がつづいたが、所詮は自らの愚かさ故の、身から出た錆で、どこへ尻の持って行きようもなく、ひたすら自分の殻の中に、うずくまっていた。仕事を放棄しなかったのがお手柄で、もし呑める口であったら、酒に溺れていたことであろう。私はその頃、麻布のある谷合に間借りしていたが、着換えに帰るぐらいのもので、いつも、駅前の連れ込み旅館とか、場末の茶屋とかを、所さだめず泊まり歩いていた。仕事のない日は、銀座の喫茶店にひとりとぐろをまき、パチンコ屋で何時間も立ちつくし、あてもなく町をうろつき廻り、やがて、夜もおそく、店という店に灯りが消え、どこにも身のおきどころがなくなって、初めて仕方なしに引揚げる、いわば、銀座の放浪人であった。戦時中なら、さしずめ、「徘徊罪」で検束されたにちがいない。
 行きどころのない身が、海へ出たのである。私の釣りは、脱出であった。意気地のない逃亡が、決して解決にはならないと知りながら、ひたすら脱出した。
釣糸をたれながら、
「ツァラトゥストラは山に登れり、再び山を降らんがため。我は海に出たり、再び、港に入らんがためなり」
 などと、私は、思い上がった諧謔を試みたりしたが、そんな釣りがたのしい筈はなかった。
 その頃のことである。
「あんた、車の中で寝てるんだって、釣道具を抱えて!」
 方々で、よく揶揄されたものである。新聞のゴシップにも出た。
 心の痛手は、長いことかかってようやく晴れたが、こんなことから病みついた私の釣りは、いまだに、孤独をたのしむ形が濃い。そこはかとない虚無感と隣り合わせである。いったい、釣りの向こうに、私は何を見ているのであろう。
 なぜひとは釣りをするのか。「そこに魚があるから」と答える。かつて「そこに山があるから」と答えたアルピニストは見事であったが、以後の、この種の亜流は、まことに鼻持ちがならない。人間の全存在を賭けた、衝動的な、無目的な挑戦が、その人の、尤も深いところと関わりを持っていてこそ、その発想に値打ちがあるのである。私の釣りは、そこに魚がいるからではない。

 私にとって、釣りとは、「水」かもしれない。はじめに「水」があり、そこに、魚があり、竿があり、船があるような気がする。竿も船も、釣りそのものである。
 水は、湖や池を最も良しとする。次に川、そして海である。ひたひたと、静かに身を包んでくれる水が最も美しい。なにゆえかほどまでに、水に恋着するのかと、我ながら驚くことがある。昔、胎内の水に、ひたひたと浮かんでいたからであろうか。水との一体感がようやく魚につながるのであって、魚は、釣りの中心にはいない。むしろ、竿と船である。船は女性、竿は男性となると、いささか駄洒落がすぎるのだが、竿と船のいずれを外しても、私の釣りは成り立たない。
 ひと頃、へらぶなの竿に魅かれ、旭匠師や源竿師さんの手引きで竿を作りはじめたときは、例によって行き当たりばったり、何にでも現(うつつ)を抜かす餓鬼として、我ながらうんざりであったが、今考えれば、あながち気紛れではなかったのかもしれない。釣りに迫る形が、竿になったのである。自分で作ってみて、やはり竿は釣りそのものであったのかと、思い当たったことである。
 船にしてもそうだ。はじめ、釣りの手段として船を持った。第一号は、手賀沼に浮かべた、十六尺位の、紅殻色の釣舟である。次は、佐原の横利根川に浮かべた、二十尺ぐらいの、本格的な釣舟である。これが古くなった頃には、水郷一帯に船外機が普及しはじめ、改めて二十二尺の釣舟をつくり、五馬力のエンジンを搭載した。材料難にも拘わらず、豪華な、杉の赤味仕上げとした。底を船虫に喰い荒らされたが、十五年を経た今も健在で、水洩りひとつない。
 その後、河口湖に、土地独特の、蝦夷松材の箱舟を三杯もった。つづいて、沼津の船大工に頼んで、鎧張りの手漕ぎボートを三杯、横浜の造船所からも、中古品のボートを二杯買った。すべて、釣りのためである。釣りの仲間たちのためにも、それくらいは用意しておきたかった。
「そんなに沢山、いったいどうする積りです! もうこれっ切りですよ」
 家内に釘をさされながらも、また、新たに船を買った。F・R・Pのボートが発売されたからである。これは、センターボード、ラダーのついた、一枚帆のヨット兼用であった。若い頃、貸ヨットを乗り廻した琵琶湖の思い出が、長い年月をくぐり抜けて、急に復活した。そこで、外国の設計書をもとに、GLEN15という家族艇をつくった。以来、K16、FC(十三呎)、ヤマ号(二十呎)、プライド(十五呎)CJ(十二呎)と、次から次に、河口湖に浮かべた。最後の二杯は、手造りの自作である。いずれも、小形レーサーである。

船と水差し込み写真(ボート置き場)
聰さんは、ボートやヨットも好きでした。釣舟以外にも、さまざまなところにボートを浮かべていました


 こうしてみると、やはり、「水なのである」。釣りの追求が竿作りになったように、同じ釣りの追求が、船の自作につながったとしか思いようがないのである。ヨットもまた釣りであるとは、あまりにも牽強附会(こじつけ)がすぎるのであるが、私の中では、いささかも筋道に狂いはない。この頃になって、そのことにようやく気付いてきた。

 私は、随分古くから、水槽に魚を飼っていた。はじめは、例の美しい熱帯魚であったが、ある冬の停電で全滅させてしまったあとは、もっぱら淡水魚を飼うことにした。鮠(はや)とかやまべは落ちやすく、どうしても、生きたまま持ち帰ることが出来なかった。あるとき人に教えられ、医療器具店で小型の酸素ボンベを購入し、ビニールの大袋の中へ、たっぷり酸素を吹きこんでおくと、どうやら持ち帰ることが出来たが、水槽の中では、いかに水を浄化循環させても長持ちしなかった。尺ばや二本と、やまめ三尾ほどを、約一年生かしておいたのが記録である。たなご一色にしたこともある。これは、熱帯魚などより遥かに美しかった。そのあとは、鮒になった。鮒は強い魚で、管理さえよければいくらでも保つ。野で釣れた赤いへらぶなも入っているが、やはり、黒っぽい銀鱗の方が美しい。うずくまって眺めていると、いつまでも飽きない。

 若い頃から、東京の都内を転々と移り住んだが、少しでも庭があると、池をつくり魚を放した。今の横浜の家にも小さな池があり、へらぶなや鯉、めだかなどが雑多に泳いでいる。なんの面倒も見ないのに、孵化したばかりの稚魚が泳ぎだしたこともあるが、喰われると見えて、育つものはいくらもないらしい。

 こうしてみると、魚も決して嫌いではない。人並以上に愛着しているにはちがいないのであるが、釣りというものに深く思い至ってみると、そこに、魚がいないのである。

 やはり、はじめに「水」があるのである。そして、竿と船である。竿を使わない釣り、自分で船をやらない釣りは興味半減である。釣りをしなくとも、竿をいじくり、船をやるだけで十分にたのしいのである。