金子四郎さんのこと(2)

2020年2月17日

金子四郎さんのこと(2)


 私たちは、相変わらず黙って竿を並べていた。

「どうするつもり、これから?」

 ふと、私が話しかけた。

「さあ。どうしようと思って」

 金子さんは、淋しそうに笑った。人生、何かに賭けていないときほど惨めなものはない。

「もう一度、竿の問屋をやってみたら?」

 と、そのとき、私が勧めたのだそうだ。私は覚えていないが、のちに本人がそういうのだから、その通りかもしれない。

 もともと釣りを愛し、魚を愛し、竿を愛する金子さんにとっては、竿の商売は、まことに自然な、必然の成行であった。繁昌の真只中にも、救いのない虚しさは金子さんを捉えて離さなかった筈でる。「でん助フライ」を自らの手で破壊した一番の動機は、むしろこの点に潜在していたのではないかと思うくらいである。再び本来の問屋に戻りたくないわけはなかった。しかし、またやり直すのはあまりにも見苦しく、しこりもいろいろ残っていて、踏ん切りがつかなかったらしい。

「あのときのひと言で、すっかり私の腹がきまりましてね」

 無責任な私のひと言が、そんなにも重大な、一生の転機につながりがあったとは、つくづく空恐ろしいことであった。

 竿春との間には、適当な冷却期間があった。暫くの間に、竿春は見違えるばかり、急速に、竿作りに執念を燃やしはじめていた。二人の仲は、すぐに戻った。柏の在の畑の中に、二人は、隣合せに住居をつくった。こうして「金子魚具店」は、また、はじまったのである。竿春の弟分の「清峯」も、紀州から東上して、南柏の在に一戸を構えた。金子さんの事業は順調に伸びて行った。源竿師をはじめ、「竿春」、「清峯」など一門の竿を中心に、旭匠師の「孤舟」も扱うこととなった。大手の小売店よりも、場末の小さな店の面倒を見る、いかにも金子さんらしい狭気は、業績にもそのまま、つながっていた。金子さんの家には、入れ代わり立ち代わり、夜おそくまで釣りの仲間が集まり、釣りや竿談義に夜を明かすことも珍しいことではなく、金子さん好みの、ざっくばらんな環境は、一種痛快な梁山泊(りょうざんぱく)の観を呈した。


 金子さんは、遥か昔から、へらぶなのすべてに関する映画をつくりたいと思っていた。釣りを愛することが、そのまま金子さんの人生であってみれば、これは、当然の夢である。「へらぶなのすべて」は存在しなければならなかった。しかし、誰もそれをやろうという者はいない。金子さんは、ある日、思いあまって私に打ち明けた。

「五十万もあれば出来るでしょうか」

 私は一瞬、この素朴な質問に戸惑った。映画作りの実際は、素人にはおよそ想像もつかないのである。余談になるが、昔私が、「蟹工船」を自分の手でつくったとき、試写会を見た、親戚の、中学の教頭先生が、つくづく感心して私に聞いたものである。

「どえらい金がかかるんでしょうなあ、映画一本つくるには?」

「ええ、まあ」

 と答えると、すかさず、

「百万はかかるでしょうなあ」

 と、真顔で訊かれ、返事に窮したことがある。「蟹工船」は、独立プロの、竹槍的な出血作品であったが、当時、三千万を要した。メイジャーの映画会社で作れば、直接費だけで、ゆうに八千万はかかるといわれたものである。

「素人手造りの8ミリでも、ちょっと凝れば、まず、五十万じゃ上がらんのじゃないかな」

「いったい、どれぐらいありゃ出来るんです?」

 私は、いい加減な返事が出来なかった。金子さんにとっては、存在をかけた仕事なのである。

「あわてて、ちゃちなものを作るくらいなら、いっそ、やらん方がましじゃないかな。二年でも三年でもゆっくり準備をして、かかるだけの金は十分にかけて、せめて16ミリのオールカラー、堂々たるものを作らなきゃ、金子さんには作る意味がないんじゃないの?」

 どんなに少く見ても、三、四百万はかかると、私は咄嗟に踏んでいた。

「やっぱり、素人は駄目。本職の監督、本職のカメラマンを頼んで来なきゃ絶対に無理!」

 私は、冷酷に答えた。

 本来、この映画の監督は、私が買って出るべきであった。脚本も、金子さんと相談して私が書くべきであった。「へらぶなのすべて」の製作は、私が最適任であった。しかし、私はあまりにも忙しく、時間的にも経済的にも追いまくられていた。こういう仕事のためにこそ、普段から余裕をあけておかなければならなかったと、つくづく悔やまれた。

 実は、数年も前から、金子さんは撮影の準備をすすめていたのである。中でも、苦心の作は、大きな鉄製のタンクである。カメラマンやライトマンたちを収容するに十分な、巨大なタンクは、すでに、古利根の池に沈めてあった。スタッフは、水上を舟でのりつけ、タンクの硝子窓を通して、水中の、へらぶなの生態を撮ろうというのである。この巨大なタンクを沈めるには、驚くほどの錘が必要であった。何個つけ足してみても、タンクは一向に沈まない。建築用の、コンクリートの大きな塚石を四百個以上も投入して、ようやく、水中に杭で固定することが出来た。そのあとが、また大変である。ただでさえ臆病なへらぶなを、窓の外ちかくに寄せるのは、時間との根くらべであった。二年を要して、ようやくタンクは、水苔で蔽われた一個の岩と化したのである。

「もう待てないんです。二、三百万ぐらいなら、銀行から借りてきます」

 と、金子さんが言う。そこで私は、仲の好い若手のプロデューサーの高橋亦一君を差し向けた。演出家には、岡村精(まこと)君、カメラマンは、松丸稔君ときまった。こうして、いよいよ、金子さんの映画が出発したのは、たしか、四十一年のはじめであったと思う。





※当時の、「へらぶなのすべて」の広告の写真を入れる

 高橋プロディユーサーは、もともと私の釣友の一人息子で、そんな縁もあって、大学を出たあと、私のプロダクションで育った若者である。しかし、彼の父親は底抜けの釣気狂いで、本業の医者をすて病院をつぶしたくらいだから、妻子に与えた苦しみは大きく、そのせいであろう、彼は口癖のように、私にからんだものである。

「釣りなんて、あんなもの、どこが面白いのか、聞いただけでも反吐(へど)が出る」

 演出家もカメラマンも、釣りには全く縁がなかったから、脚本作りは困難を極めた。スタッフはまず、釣りの勉強からはじめなければならなかった。

 あらましの構想が出来上がると、もう夏であった。第一部を「竿」篇、第二部を「へらぶなの生態」篇、第三部を「釣技」篇とし、それぞれを、分離独立上映出来る三部作にすることになった。

 竿篇のためには、脚本のためにも、撮影のためにも実地見学が必要であった。金子さんは、スタッフとともに、紀州へ長期のロケハンに赴き、それが終わると、改めて、竿篇のシナリオの完成を急いだ。勿論その間にも、釣技の実際をどこでどのように撮影するか、魚の生態を撮るための、よりよき具体策を研究するとか、為すべきことは山ほどあった。

 スタッフは七人、全員、金子さんの自宅へ泊まり込んでいたが、完成までの約一ヵ年、金子さんの家は、およそ家庭などというものではなかった。まさに、火事場である。奥さんの心労が思いやられるのである。

 竹の伐採は、毎年、冬の入を待って行われる。十一月の上旬、「竿」篇は、まず、竹の伐採の撮影から始められた。源竿師は、山歩きが好きで、足が強く、地理にも詳しかった。地勢、方角、周囲の植物などから、優秀な竹の在りかを嗅ぎ分ける特殊な才能を身につけていた。源竿師について山深く分け入り、山歩きはとめどもなくつづいた。高野竹(こうやちく)は高野山を中心に、矢竹は、奈良、三重の方まで遠出した。

 竿作りの実際は、かねての手筈通り、源竿師の仕事場で行われた。十二月の中旬、一応、「竿」篇を撮り終わるまでの一ヵ月半というもの、源竿師は、余く本業放棄の協力振りであった。源竿師の立派な風貌は、いかにも迫力のある美しい絵となったが、カメラに向かっては素人の悲しさ、スタッフの要求と御本人の意図の間には事ごとに行き違いが多く、撮影は難航を極めた。まして、竿作りの実際は、いかにも多種多様、複雑微細で、撮すべきことが多すぎた。脚本は、現場で刻々に変改を余儀なくされた。

 師走も押しつまって帰京したスタッフは、息つくひまもなく、「釣技」篇に入った。舞台は、手賀沼の北部である。私は、年末の四日間を、そのために開けていたが、雨に祟られ、ようやく出演出来たのは、四日目の、暮の三十日、西風の吹きすさぶ、酷寒の日であった。

 釣技の良き模範を示すためのモデルが、私の役である。晴れてはいたが、はじめてみると、たちまち凍りついて、指の自由を失うほどであった。ちょうどそこが、湖水の深んどで、細い竹を地底に立てて目印とし、冬場のポイントになっていた。その竹と、風に妨げられて、竿振りは模範どころか、なかなか思うにまかせなかった。撮影のための釣りは、いつやってもたのしくないものであるが、この日は、特に難行苦行であった。撮影が終るのを待ちかねて、船宿の炬燵に飛び込み、洗面器の湯に両手を浸したが、凍てついた体はいつまでも慄えがとまらず、人声も暫くは耳に入らなかった。しかし、出来上がった画面は、春風駘蕩、いかにも長閑な釣りの情緒がよく出ているという評判で、さすがは役者とほめられ、かろうじて面目を施した。

 私の出演したこのシークェンスだけが、全篇を通じて、唯一の突貫作業であった。私の、限られたスケジュールが原因である。悪い模範の役は、金子さんが買って出た。

 年が改まると、魚の「生態」篇に入った。

 これが最大の難関であった。古利根の巨大なタンクにも随分通ったが、タンクの窓外へ垂らした餌へは、魚がなかなか寄ってこなかった。潜水して、水中カメラで狙ってもみたが、神経質なへらぶなの就餌状態など撮れる筈はなかった。しかし、このことはある程度実験済みであった。金子さんは撮影に先立ち、室内に、二トンの水が入る水槽を作り、その中へ、手賀沼の古い粗朶を持ち込み、魚のための環境を用意していた。しかし、臆病なへらぶなは、撮影のための照明をあてると、たちまち怯えて粗朶へ姿をかくし、釣鉤の餌にはよりつかなかった。そこで一切の餌を与えず、空腹を待って照明をつけ、そこで餌をやった。これを反復繰り返すことで、魚はようやく、照明を合図に餌をもとめて隠れ家を出るようになった。この条件反射を魚に植えつけるのは、なかなかの根気仕事で、二ヶ月ほどもかかった。ワンカット撮っては休み、あとは、魚の御機嫌伺いである。最大の眼目は、就餌の実態であった。魚がどのように餌に近付き、どのように餌を吸い込み、どのように吐き出し、どのように鉤がかりするのか。その実態を知ることは、釣師の夢であった。すべては、魚との根くらべであった。魚が病気になったこともあって、「生態」篇には、三ヵ月半を要した。

 全撮影の完了は、四十二年の三月下旬、スタッフを組んだ、直接の仕事始めから数えて一年あまり、金子さんが準備を始めてから、三年以上もかかったことになる。

 このあと、ラッシュ・プリントによる編集、音楽や音響を入れるためのダビング処理、ネガ合わせ、上映用の本焼きと、延々仕上げの日数がかかるのは勿論である。解説の声は私がつとめた。タイトルの題字は、佐分利信さんにお願いした。

 実際に撮影したフィルムは、全部で約十時間分あった。その中から拾い上げ、完成品の中に収められたフィルムは、各篇十五分宛として、合計四十五分に過ぎない。映画がまだ斜陽でない頃の、平均的な大ざっぱな実態からいうと、一時間四十分ぐらいの劇映画に要する撮影日数は、約四十日、フィルムの使用数は、完成尺数の約二倍半である。記録映画は、大きく実態が違うものであるが、それにしても、日数にして約十倍、フィルムにして十三倍とは、素人の金子さんが、よくここまでやり通したものである。

 何にも増して苦しかったのは、経費の膨張である。はじめ二、三百万の予定が、ついに一千万を越すに至っては、さすがの金子さんも、内心蒼くなっていたが、愚痴ひとつこぼさなかった。もはや、銭金ではなかった。

「とうとう、ネコさん、おかしくなっちゃったよ、ここが」

 身近の友達までが、一時本気で、頭を指さし噂したものである。全く、狂気の沙汰であった。

 数年前からの準備、スタッフの宿泊費などを加えれば、少なくとも一千五百万はかかったことになる。

 映画は、驚異的な好評をかち得た。私たちの「銀座へらぶな会」でも、佐原の春の大会に、早速上映してもらったが、百名に上る釣師は、ただただ感嘆するばかりで、会員でもある金子さんの壮挙に万雷の拍手を捧げた。

 地方からの上映申し込みは殺到した。金子さんは、どこへでも出張して映画を公開した。それは、今もなおつづいていて、現在までに出張上映した土地は、約三百ヶ所以上、今や北から南まで、足跡の及ばない地方はないまでになった。驚くべきことは、その殆どが、自らの運転による自動車出張である。中国筋を打ち上げた足で、夜を徹して走りつづけ、翌日の昼には、もう信州の町で上映をはじめるという神業は、自動車によらなくては出来ないのである。

 さらに驚くべきことは、この上映が、一切の営利を離れた、運動であるということである。どこまでも、無料奉仕である。いくらかでも会費や謝礼が入った場合は、直ちにそれを、手製の、「身障者更生資金箱」に入れ、地区の更生課に寄附してしまう。これには、私もほとほと呆れるのである。いくら生涯をかけた運動のためとはいえ、かりにも莫大な借金を背負っているのである。少しは、元をとろうとしてもよいのである。

「ただなんて、今どき、そんな馬鹿な!」

 あまりの無欲さに、却って、何か裏があるのではないかと、勘ぐる向きも多かった。金子さんは、いつも笑って答える。

「そういう馬鹿が、現に、こうやって、ここにいるんだから、どうしようもないでしょうよ」

 これは明らかに、へらぶな釣りの普及だけが目的ではあるまい。釣りの中でも、特に竿というもの、中でも竹というものについて、或いは、魚を愛することについて、世の釣師の無知、無関心は、広く人間一般の頽廃と無縁ではない。そのことへの憤激に突き上げられた所業としか思いようがないのである。

 金子さんは大分前から胃が悪く、いつも、胃酸を用いていた。それが、撮影の初期の、山歩きの頃から悪化しはじめ、ときには、ひどい苦しみを見せることがあった。映画が完成したあとも、得意の口癖で、

「なに、へっちゃらさ」

 と、強気一点張りの地方出張が重ねられていた。そして、ついに、倒れた。胃潰瘍である。誰もが、癌だと思った。

「ネコさんも、ついにいかれたか」

 死ぬときまったような口吻であった。

 一時、金子さんは死を覚悟した。しかし、死ねない思いに日夜苦しみ抜いたという。俺にはまだ、やるべきことが沢山残っている。死の床の、この自覚ほど恐ろしいものはないにちがいない。

 しかし、金子さんは見事に立ち直った。手術は、却って、金子さんを不死身に変えた感があるのである。金子さんは、早速、仕事にとりかかった。今度は、へらぶなの生態と就餌についての8ミリ映画である。金子さんは、ただひとりカメラを操って仕上げたが、上映時間二十分、フィルム代にして八十万、三ヵ月を要した。

「へらぶなのすべて」は、たしかによく出来ていた。しかし、「竿」篇は、たった十五分である。竿作りの実際が、かくも時間を要し、かくも精魂を傾けなければならない仕事であると実感させるには、あまりにも尺数が短かった。下手をすると、十五分もあれば竿が出来上がるのかと、錯覚させかねない点もあった。また、「生態」篇にしても、へらぶなの実態のすべてが、十五分で描き切れる筈はなかった。この点が、金子さんには、どうしても飽き足りなかった。その補追のための試みのひとつが、この8ミリ映画であった。

 釣師はよく法螺を吹いてとめどがないものである。自称、大久保彦左ヱ門の金子さんが、すかさず茶々を入れる。

「お前、魚の気持、聞いてきたのかよ!」

 魚についての、釣師の擬人法的な発想は、いかにも無邪気な愛敬ものであるが、金子さんは、何よりも、この擬人法を映画によって粉砕したいと思った。

 竿についても同じである。

「この穂持(継竿の、先から二番目の部分)は、いい竹を使ってるねえ」

 などと、したり顔で言う釣師の姿は、どこの釣具店でもよく見かける風景であるが、、金子さんは、いつも、毒づきたくなるのである。

「竿師が一生かかってもまだ分からない竹の神秘が、そう簡単に分かってたまるかい!」

 竿作りの実際ということよりも、竿自体の芸術性について、竹自体の神秘性について、二時間か三時間の映画をつくりたいというのが、今の、金子さんの夢である。

 それにしても、釣りというものは、いったい、何なのだろう。一般には、遊びである。本人がたのしければ、それで十分なのかも知れない。人間には、それぞれ本業があり、本業の道は、きびしく嶮しい。その息抜きが、遊びであり、レジャーであるにはちがいない。また、ひと口に遊びというけれど、それが、たのしいかたのしくないかは、人によることで、たのしみ方にも、大小深浅、さまざまな相違がある。同一人をとってみても、昔のたのしみ必ずしも今のたのしみではない。遊びも深入りすればする程、奥がひろく、たのしみ方も、いよいよ貪欲になって行く。このことは、究極のところ、人間の生き方に直結してくることで、本業と遊びをきっかりと断ち分けた形では、そのどちらをも正しく捉えることは出来まい。金子さんは、子供の頃の遊びから、竿の商売に入った。しかし、商売を超えて、商売もろとも遊びに徹しているのかもしれない。遊びは必ず本業にはね返り、本業がまた、遊びを規定するのである。釣りは、どうしても、一種の人生哲学に行きつかざるを得ない。釣り自体が、遊びを超えて、その人の人生になり得るのである。本人がそれを意識しなくとも、事実が、そうなっているのである。遊びが愉しみになるのである。

「四の五の言うこたあねえよ、たかが遊びじゃねえか」

 などと、釣師はよく放言する。

 こういう人は、

「四の五の言うこたあねえよ、たかが人生じゃねえか」

 と、放言して慮らない、余程の、禅師、達人の類(たぐい)であろう。

 金子さんは今、もうひとつの夢に取り組んでいる。釣りの資源確保のための一策である。四国の香川県には、ダムも入れて、大小約三万数千の池がある。河内ぶなと称して関東へ持ち込まれるへらぶなの多くは、実は、この土地に供給を仰いでいるのであるが、鰻が浜名湖、錦鯉が新潟ならば、へらぶなは、当然、香川でなければならない。すでに、環境がそこにあるのである。金子さんはいま、地元と協力してこの運動をすすめる一方、鹿島灘の埋立地あたりに、巨大な池をつくるべく研究中である。香川の魚を常にこの池にプールしておき、必要に応じて、関東一円に香川べらが送りこまれる日も、案外遠くはないであろう。

 附け加えておくが、関東の、へらぶな釣りはそんなに古くない。その初期の頃から、金子さんは、釣り界の中央から一人離れて、へらぶな釣りひと筋に生きてきた。年は若いが、れっきとした草分けの一人であることは、意外に知られていない。