琵琶湖の釣り(4)
大津のタナゴ
船着場というものは、極めてロマンチックなものである。特に、静かな湖水の夕まぐれ、人影の絶えた桟橋には、色とりどりの船が、安らかに波に揺れている。そこに、ヨットのマストが並べば、もう申し分なしである。
見ると、小さな男の子が、桟橋の外れにうずくまり、船との間の波間に釣糸をたれている。やがて一寸ほどの小魚が抜き上げられ、桟橋の上で銀鱗をひらめかす。子供は、可愛い掌を椀型に伏せて掴む。小さなバケツには、もう、いくつかの小魚が入っている。
「夕飯だちゅうに、どこをほっつき歩いてるんだい。全くこの子ときたら、糸の切れた凧なんだからねえ」
早く帰らないと、また母親に怒鳴られる。不安におぼえながらも、男の子は、いっかな釣りをやめようとはしない。夕闇は、いよいよ立ちこめていた。
あるロケーションの帰り道、大津の港で車をとめ、誘われるように桟橋へ出た時のことである。私は、子供に話しかけなかった。子供は時折、口の中で何やら独り言をいって釣っていたが、やがて、黙って帰っていった。私はいつまでも、その場を離れかねていた。間もなく夜が来た。
翌日は、ちょうど休みであった。京都の宿へは帰りたくなかった。私は、ほど近くの、湖畔の宿へ入った。朝、暗いうちに釣船を廻してくれるよう手配して、その夜は早くから寝た。釣竿や餌は、いつも車に積んであった。
早朝から、へらぶなを釣ったがどうしても釣れない。あちこちと河岸を変えてみるが、一向に釣れる気配もない。そこで、ふらふらと、あてもなく櫓を漕ぎ始めた。船遊びも結構たのしいものである。そろそろ早昼にしようかと思い始めた頃、遠くの砂浜に釣師の群れを発見した。浜大津を遥か東に寄った岸辺である。子供たちに交じって十数人の釣師が竿をふっていた。静かに船を寄せてみると、沖合一面びっしりと金魚藻が生えて絶好のポイントに見えた。そこで私は、早速錨をおろし、釣りはじめてみると、たちまち入れ喰いである。へら仕掛けの二本鉤に、一荷でかかってくる。へらぶなでないのは残念であったが、色美しいおかめたなごである。
もともと、たなご釣りは江戸の名物である。脈釣りの方が能率的であるが、私は浮子釣りを好み、随分通ったものである。たなご専門の釣会もあるほどで、たなご大会の優勝者は、ゆうに、八百匹も釣った。
やまべなどの釣餌に、ちしゃの虫というのがある。珈琲ほどの褐色の殻の中に、マシマローよりも軟かな、せいぜい仁丹粒くらいの、白い小さな虫が入っている。その華奢なこと、そっと指でつまむさえ、もうつぶれかねない。小魚には絶好の餌で、私は、京都の釣具店ではじめて、この餌を知った。当時、関東ではどこにも見当たらず、のちに、餌問屋に頼んでわざわざ引いてもらい、升目にして、二枡の余も買い占めたことがある。多分、問屋からきいたのであろう、突然見知らぬ釣師の来訪をうけ、一合、二合と譲って上げた覚えもある。
そのとき、ちょうど、ちしやの虫を携えていた。そこで、へらぶな仕掛けのまま、鉤を小さく変え、ちしやの虫で釣りはじめてみると、それこそもう百発百中であった。私は、その頃もう、へらぶなにとり憑かれていたが、まだまだ、なまくらで、時により、所により、どの釣りにも転向できるよう、鉤も糸も、びくも用意周到に揃えていた。ただ竿だけは、へら竿で押し通していた。
目の細かい長網の底に、ガンガラをとりつけた罐びくというのがあり、小魚用にその時も持っていたのだが、あの小さな、体の薄いたなごが、底から口もとまで、ぎっしりと釣れたのだから、おそらく、二千匹はゆうに超したのではなかろうか。あまりの目方に、繊細な網は今にも破けんばかり。ぶら下げて歩くわけにも行かず、片手で罐の底を支え、胸に抱くようにして、岡へ上がった。
土地のおかみさんが、得意満面の私に容赦もなく浴びせかけた。
「どないしやはる積もりだす。そないに釣りはって? 鶏の餌でんがな、そないなもん」
私は、むきになって、関東のたなご釣りのことを説明したが無駄であった。
「そやけど、まあ、そんな阿呆らしいもん、よう、そいだけ釣りやはったなあ、ほんまに」
京都へ帰ったその夜は、宿の奥さんと二人で徹夜であった。一尾ずつ、炭火の上で丹念に焼くのである。何日も陰干しにしたあと、甘露煮に仕上げるときが、また、鍋の前につききりであった。荒塩などを入れる土嚢を買い、その中に、一尾一尾形を崩さぬよう積みこんで、汽車の中も財宝のように抱きかかえて持ち帰り、能書の百も並べて方々へお裾分けしたのだが、これほど、手のかかる料理もないものである。
このときが、たなごの釣おさめで、以来やったことがない。一時、うちの水槽に、たなごばかり飼っていたことがあるが、これは、冬のはじめ、手賀沼近くの細流で、網で獲ったものである。たなごは、烏貝と共存共栄、貝の中に産卵するときき、水槽に烏貝を入れてみたことがあるが、これは、巧く行かなかった。
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