名竿「孤舟」の秘密(5)
名竿「孤舟」の秘密(5)
火入れの要諦は、まず、火造りであるといわれている。強いと同時に軟かい火、しかも、むらのない、静かな火でなければならない。強いばかりでは、竹の深部浸透する前に、表面を焼いてしまう。弱い火では、内部に通らない。内部に届くほど強く、表面を焦がさないほど軟かく、しかも、煽りのない、むらのない火勢が、万遍なく竹にあたらなければならない。
これは、刀剣などのヤキ入れにも、そっくりあてはまるが、私は、指圧師の、指の魔力にたとえて見たい。力づくで圧したのでは、組織を損ね、皮下出血のアザをつくってしまう。軟かく圧したのでは、深部の神経や血管に活を入れることにはならない。しかも、指圧という技術が直接体をいやすのではなく、その技術は、体が本来もっている生命力によって、自己更生出来るよう、手助けをしてやることである。このような説明は、極めて非科学的で、あまりにも東洋風に聞こえるが、現実に、そのような不思議が為されるのであって、まさに、火造りは、魔術的なのである。
火の良否は、勿論、燃料によってもきまる。コークス、木炭、電気、ガス、あるいはその組合せ。木炭ひとつにしても、楢炭がよいか、桜炭がよいか、あるいは、下積みには何を用い、上積みには何を使えばよいか、追求すれば限りのないことだが、火を盛る容器にも、大きな問題がある。
習慣的には、やや大降りの四角い七輪が使われる。七輪の口もとまで水平に、ぎっしり、火を盛ったあと、その火の上の両サイドを、長方形の耐火煉瓦で蔽い、中央に、竿を焙(あぶ)るための間隔をとり、そこを火口(ほぐち)とするのが普通である。
しかし、火勢というものは、まっすぐ上へ昇ろうとする。それが、煉瓦の底で遮られ、底をはって横へ動き、火口へ現れてくる。これでは、理想の火をもとめるのに、無理がありはせぬか。そこで、旭匠さんは、二個の煉瓦の代りに、キャップと称するものを考案した。深い椀型を俯伏せにして、すっぽりと火の全面を蔽い、椀の底の部分に、長方形の溝を開けて、火口とした。つまり、火の上に、さらに火の部屋をつくり、まっすぐに上昇する火勢を、逆椀型の、内壁の丸きに沿って導き、無理なく調整された火を、ふんわりと、火口に集めようという狙いである。
このアイデアを具体化するために払った、旭匠さんの苦心のほどは驚くばかりである。珪藻土(けいそうど)に、蕊までたっぷり水を浸みこませたあと、こつこつと、ノミを使って、形を整え、内部をくり抜く彫刻の仕事であるが、キャップの高さ、アールのつけ方、口の大きさ、内部の広さによって、火は、どのようにも変ってくる。出来上がったあとは、銅線をより合せた二本のたがで締めておくのだが、これはというものを発見するまでには、造っては壊し、壊しては造り、次から次へ、恐らく、百個以上にも及んだであろう。
七輪にしても、習慣的に使われているものがはたして最高であるかどうか。角型も、丸型も、およそ、市販されているものは、片端から買い漁り、不必要な風穴のあいているものは、そこを埋め、寸法的にも、切り取ってみたり、継ぎ足してみたり、果ては、北陸の珪藻土の産地まで足を運んで、特殊設計の七輪を誂えてみたり、旭匠さんの執念は、つきるところを知らなかった。それもこれも、古竹の処理には、古竹にふさわしい特殊な工夫が必要であったからである。
あとで述べることにも関係があるので、漆の乾燥のことにも触れておこう。漆は、湿気乾燥であり、そのための設備としては、普通、ムロと呼ばれるものが使われる。ムロにも、いろんなものがあり、私の見聞した中では、源竿師さんのムロが実に素晴しかった。工房の床下に、深い大きな穴を掘り、地熱による自然の湿気で乾燥させるのだが、あるとき、穴の底に芽ぶいた、多分、実生(みしょう)の小さな木が、ついに床上まで伸びて、床の隙間から、あざやかな緑の若葉を覗かせていたのは、美しい風景であった。自然材である竹の処理にふさわしい、何よりも自然の方法として、十分に納得が行くのだが、これは、たまたま、紀州の、独特な地質が適しているからであって、他の土地では、必ずしも巧くいかないらしい。勿論、旭匠さんは、ちかムロではなかった。それだけに、人工的な苦心が、しつこいまでに払われていた。間口一間の押入れを改造したものだが、このムロの改良のためには、どれほどの努力が為されたか、何度も何度も、徹底的に作り変えられた。最後に私が見たものも、旭匠さんには、暫定的なものと考えられていたらしいが、押入の奥が、壁を隔てて直接外界に接しているため、まず外部から改造してかかった。断熱材などを埋めて、外界の影響を十分に拒み、内部は、天地縦横、全壁を、熱の導体である銅板で蔽った。湿気を適当に調節する装置と同時に、季節に応じ、適温を銅板につたえるヒーターも用意された。
漆もまた生きものである。表面は乾いても、内部まで、完全に乾燥するには、何年もかかると言われている。極端にいえば、何十年かもしれない。完全に乾き切るまでには、やはり竹と同じで、移ろいやすい性質をのこしている。ムロの中の温度調節、ムロ出しのあとも、適当な温度下に貯えることが、湿気と相俟っていかに大切であるか、少しでも早く、漆を安定させるには、温度、熱がいかに有効、必要であるか、この点に、いち早く気付いていたのも、旭匠さんである。
旭匠さんは、喰うや喰わずの中で、徹底的な寡作であった。出来上がった竿も、すぐには卸さなかった。竹が生きつづけていること、漆が完全には乾燥していないこと、これは、まだ、どのようにも変化の余地があるということで、完成品とはいえなかった。一番、分りやすい例でいえば、どんなに巧妙に仕上げられた竿も、やがて、接合部に狂いが出る。竹が変化したともいえるが、むしろ、玉口に布かれた漆が、乾燥して凝縮することにより、竹を周囲から絞めつけて、開口部を狭くしたと見るのが正しい。
未完成品の竿は、長い時間をかけて手許で管理し、また、実際に釣りに使うことによって、現われるべき狂いは早く現われさせて、それを手直しをする。十分に安定するまで、竿の行方を見究めた上で、人手に渡すのが作家の良心というものである。はじめ、旭匠さんは、頑として、この線を守っていた。しかし、ただでさえ寡作の旭匠さんが、これでは喰える筈がない。需要が増えるにつれ、出来上がった竿から、順次、手離すことになるのだが、旭匠さんは、ことあるごとに叫んでいた。
「私はここで嫁に出しますが、あとはそちらで私に代わって十分に育ててやって下さい。そちらさま次第で、よくも悪くもなるのです」
しかし、結果は、裏切られることの方が多かった。とはいっても、それは、本来、自分がやらねばならぬ仕事と知っていた旭匠さんは、最後まで、そのことでは、自分を責めていた。解決出来ないヂレンマである。
竿は、完成に向かって保管し、完成に向かって使用しなければならない。しかし、釣師は、完成品と信じて疑わない。このギャップが、一時、世間の風評となった。
「孤舟は近頃、質が落ちた。沢山、作りすぎるからじゃねえのか」
旭匠さんは、泣きべそをかいて訴えていた。
「そんな殺生な、ええ竿は作れ、メシは喰うなと言いたいのかしらんが、わしは、絶対に質は落しとらん」
私には、旭匠さんを、いささかも責めることは出来ない。作品の数は増えたが、はじめが極端な寡作であったというだけの話で、決して、量産というほどの多作に走ったわけではない。かりにも、作品をゆるがせに出来る人ではなかった。
旭匠さんにとっては、竿の一本一本が、丹精込めて育てた娘であった。竿を人手に渡すことは、旭匠さんにとっては、文字通り、娘の嫁入りであった。従って、修理に返ってきた竿は、娘の里帰りである。旭匠さんは、孤舟の縁付き先を、克明に手帳に記していた。分らないものも、里帰りした時には、はっきりして、そこで、手帳に書きこまれる。恐いもので、竿の破損の状態から、その持主の竿の扱い方が、ひと目で読みとれる。何某の欄には、赤インクで、「要注意人物」などと書きこまれる。この人には、もう今後、竿は売るまい、と決意したりする。心なき釣師によって、最愛の竿が、完成どころか、破壊に向って使用される事実につき当り、旭匠さんの困惑は極まる。どんな名竿といえども、使い方によっては、無惨に亡びて行くというのが、旭匠さんの考え方で、これを防ぐには、少なくとも四、五年は売ってはならないのである。しかしこれは、旭匠さんにも出来なかった。まして、他の竿師にそれを求めるのは無理であろう。
竿に対する愛情は勿論だが、正しい理解なしには名竿は存在しないということになる。それが、竹竿の宿命であり、しかも、竹が自然材であり、いまのところ、へら竿のためには、竹にまさる素材がないとすれば、釣師も、責任を分かち持たなくてはなるまい。
私は、旭匠さんとのおつき合いの前から、源竿師さんや、竿春さんには親しくしていただいているが、旭匠さんと紀州とでは、竹の選別、処理をはじめ、火づくり、矯め木、錐(きり)、生地合(きじあわ)せの順序など、竿作りの百般にわたって、違いが大きすぎる。どうかすると、正反対ではないかと思えるほど、システムがちがうのには驚いていた。
「それは、古竹を使はるからやないですか」
竿春さんが、いつもの控え目な調子で答えてくれたことがあるが、実は、私もそう思うのだ。孤舟という竿の秘密は、すべて、この古竹にある。これほどまでに、古竹と格闘した竿師は、他にはないといっていい。まことに開拓的な仕事であり、それを支えたのは、旭匠さんの作家精神であった。
段巻と呼ばれる竿の化粧も、旭匠さんの創案である。へら竿究極の生命が、バランスにあるという点から見れば、外観上の化粧は、実は、どっちでもよいことになる。しかし、孤舟の段巻は、化粧というには、あまりに精神的であって、単なる思いつきではなかった。
旭匠さんにとって、竿は、刀なのである。旭匠さんは、名前を鉄太郎という。いかにも、旭匠さんにふさわしい名前だが、旭匠さんは、本来、武士的であった。段巻という発想は、当然、槍などの武器からきていた。
「へら竿は、風切り刀である」
とも言っていた。旭匠さんにとっての釣りが、即修験の道であった怪異は、こんな点にも窺えるのだが、段巻は一世を風靡した。段巻に非ずんば、へら竿に非ずとばかり、竿師は、こぞって段巻を作った。それまでの、皮をむいた、磨き仕上げは影をひそめ、全部、皮つきとなった。
竿に、焼印の銘を入れることは、前から行われていたが、制作年号と、竿の長さと、調子についての細かい記入を行ったのも旭匠さんが始めたことである。へら竿の調子の出し方から、化粧の末に至るまで、結果的には、竿師の全部が、右へならえをした感じさえある。旭匠さんの独創性は、それほどの指導力をもっていた。
旭匠さんは、弟子をとらなかった。四人の息子たちが、子供の頃から、理想的な弟子として育てられていたからでもあるが、竿作りには、竿作り以前の、作家的な燃焼を必要とする旭匠さんの考え方からすれば、そう簡単には、弟子が見つからなかったのが実情だ。旭匠さんは、子供たちに、まず、釣りをしろと教えた。少しずつ、技術を身につけるに従って、いよいよはげしく、釣りをしろと勧めた。息子さんたちは、よく、親の心に、ついて行った。レジャー時代といわれ、見るもの聞くものに目を奪われ勝ちなときも、息子さんたちは、レジャーに背を向け、釣りと竿作りの毎日であった。辛うじて、刀剣の趣味だけが加わったが、刀は、竿の行きつくところであった。
しかし、旭匠さんは、固く門を閉じて、弟子を拒んでいたのではない。むしろ、友に飢えていたといえよう。しかし、時代の風潮から見て、旭匠式を他にもとめるのは無理と知っていた。
二、三度懇請されて、弟子をとったことがある。しかし、弟子は、旭匠さんを全く理解できず、ついに、破門を喰った者もある。
旭匠さんは、晩年には、もとめて人材を探した。とくに、めぐまれない、無名の竿師の中の、これはと思う者には、積極的に誘いの手を伸ばした。旭匠さんは、常に、有名無名、無数のへら竿を手許にとりよせ、一本一本、丹念に調べて、研究の材料にしていたが、無名の若手の中に、ピンと胸にくる、素性のいい竿を見つけると、ムキになって誘った。自分が開拓したユニークなものを、広く、開放したかったからである。ようやく、二人の竿師が、現実に、弟子として獲得された。二人とも、普通の意味では、一人前の竿師であった。
このときの、旭匠さんの喜びようとてはなかった。
「いまに見てなはれ、何年かあとには、あっと、いう奴ができよるかもしれん」
二人の弟子はまだ無名であったから、精一杯量産につとめても、決して生活は楽ではなかった。そこで、月給制にした。それまでに得ていた月収を、はるかに上回る金額である。生活に追われることなく、納得の行くまで、手間暇かけて、竿作りに専念できる場をつくってやった。手持ちの竹を、自ら、生地合せし、それを仕上げさせる。もちろん、住みこみではない。それまで通り、自宅で仕事をさせるのだが、制作の重要段階、たとえば、火入れ、玉口とコミの接合、穂先の削りなどは、その度に点検をうけ、指導をうけるという取り決めであった。出来上がったものは、さらに、旭匠さんが、十分な手直しをして、これはというものは、孤舟として、市場に出た。おそらく、この点が、またしても、悪評となって、町に流れたのであろう。
「無名をよいことに、腕っこきの竿師を下職として量産をはかり、がめつい搾取を行っている」
もともと、どの竹を使い、どういう生地合せをするか、この点が、竿作りの、根本である。ここに、まず、作家にの精神が十分に発揮されるのであって、ビルディングを実際に作るのは何々組ではあっても、ビルディングの作者は、設計をした人である。
「もうあと、ちょっとのとこで、わしが極めをせんでも、あいつは一人歩きをしよりまっせ、まあ、見てておくんなはれ」
弟子自身の作者銘を打った竿も五、六本はできた。その竿には、旭匠さんが、極めの焼印を押して、責任をとった。しかし、旭匠さんの期待は、裏切られた。弟子の一人は二年ほどで、あとの一人は四年ほどで脱落して行った。弟子は、師匠の心を理解していなかった。利用されたとしか感じなかったのであろう。
古い譬えで恐縮だが、昔から、燕雀何ぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんやという言葉がある。私たち俳優の仲間でも、上手は、上手にしか分らん、といわれている。要するに、器(うつわ)がちがうものには、まるで理解が及ばないといういことで、何ごとにつけても、旭匠さんのまわりには、いつも、この手の誤解がつきまとっていた。変ないい方だが、それだけ、旭匠さんは偉大であった。
三好十郎という、大劇作家がいた。商業主義に背を向け、終生、文壇の外に住み、貧乏の中で、文字通り、劇作の魂をつらぬいた偉大な詩人であるが、三好さんは、何度も、小さな劇団をつくった。商業主義に毒されない、純粋な演劇人、純粋な俳優を育てたいと願ったからである。ごく内輪の研究発表会をやるくらいで、決して、性急に、派手な公演活動を目ざすこともなく、ただ、演劇理念の追求と、演出演技の実習だけに専念し、そこから、やがては、筋金入りの演劇、俳優を打ち出そうという、遠大な計画である。考えてみれば、世の中のすべてが、滔々として商業ベースで動いているとき、このような、至純な試みが、無惨な敗北に終ることは当然かもしれない。三好さん自身が、まず、そのことは知っていたはずだ。にもかかわらず、何度でもあえて挑戦せざるを得なかったのは、それだけ、三好さんの、演劇に対する情熱が純粋であり、熾烈であったからだと思う。弟子どもは、少し腕が上がり、商業ベースに乗る機会が到来すると、たちまち脱落して行った。三好さんの努力は、いつも、弟子の裏切りという形で報いられた。もっとひどい裏切りは、世評であった。すべては、三好さんの、ガリガリの個人主義、偏狭な人格のせいであると、大方の人が見て、笑ったのである。
誤解は、金銭についてとくにはなはだしかった。三好さんも、自分の脚本を、企業に売ったことがある。このときばかりは、頑として高値を吹きかけ、一歩も引かなかったが、それを、人は、金に汚いと、とった。しかし、真面目な職場演劇や、真面目に演劇と闘っている劇団に対しては、書下したばかりの大作を、惜し気もなく、無料で提供した。しかも最後まで、生命線ギリギリの貧乏に耐えぬいたところは、金に汚いどころか、徹底的に、キレイな人であったことを私は知っている。
旭匠さんは、いろんな点で、三好さんに似ている。あえて引用した次第だが、旭匠さんは、決して、金に汚い人ではなかった。竿作りの純粋さのためにも、竿師全体の生活改善のためにも、常に、陣頭に立って戦った人である。決してガリガリの個人主義ではなかった。
有望の弟子ではあったが、やはり、脱落すべくして脱落したといえる。作家としての純粋さとはどういうものであるか。作家の修業というものは、作家にとっては、それ以外にはやりようのない、したがって、ある意味では、やさしい道なのだが、作家でないものにとっては、実は、理解できない、もっとも困難な道であるということだ。
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