金子四郎さんのこと(1)

2020年2月17日

金子四郎さんのこと(1)


 終戦直後、浅草稲荷町の東作へは、よく足を運んだものである。四世東作は、白髭を美しく伸ばした、いかにも柔和な人柄であったが、鮎や鮠(はや)の渓流竿、はぜ竿、磯竿などを得意としていた。

 私は、主として、行き当たりばったりに並竿を買ったが、たまには奮発して、はぜ竿の長短五本組を二揃、或いは、丈三、丈五を一組とした鮠竿などを特別注文したこともある。

「どこか、うまい場所を教えて下さいな。鮒を釣りたいんだけど」

 と、私がきいた。

「ありますとも。戸指しへ行きなさい。昔から、鮒は戸指しときまったもんだ」

 なるほど、戸指川の名前はあまりにも有名であった。東作さんは、気さくに地図を書いて、川の近くの、木内という農家まで紹介してくれた。

 そのとき、ぽつんと店先に立っていた客が金子四郎さんである。

「そうだッ」

 東作さんが奇声を発した。

「鮒の名人がいたんだよ。ここに。すっかり忘れてた。この人はね、ぶっ叩いても壊れない、固いお人柄ですから、絶対まちがいなし、相談にのってもらったらいかがですか」

 金子さんは、両手を体の脇に伸ばし、まっすぐな背筋を、腰で、くきんと折って挨拶した。ああ、このひとも、相当長い兵隊帰りだなと、私は思った。これが、金子四郎さんとの出合いである。

 早速、金子さんを誘って、戸指へ出かけた。木内さんの奥座敷で、私たちは、吹きあれる筑波おろしを聞きながら、丹念に、玉虫の毛を抜いて翌日に備えた。寒鮒の並べが目的であったが、併せて、寒たなごも試みようという私の魂胆であった。

 翌日、太鼓橋の袂で農舟を借り、小雪をついて川に出たが、金子さんの棹さばきは、まことに鮮やかであった。間もなく風はおさまったが、雪は霙(みぞれ)に変わり、寒気はいよいよ、ずっしりと骨の髄まで浸透して、釣にならなかった。ほんの小鮒いくつで退却したのであるが、金子さんは当時から、へらぶな一本槍で、釣れようが釣れまいが、頑として、芋練りの、へらの一本釣りであった。

 帰りは、成田街道へ出るべく、神崎(こうざき)の渡し舟にのった。立派な神崎橋が架けられたのは、はるか後のことである。小さな機械船で、河岸から舷へかけて、ちょうど、自動車の両輪の幅に長板を二本渡し、その、かなりの傾斜を車で昇るのである。無事に車を乗せてみると、車の頭と尻が、両舷の外へはみ出した。冬の夜は、早くも黒々と暮れている。

「こんな危ないことをして、事故は起きないもんですかねえ」

 船長さんが、こともなげに笑った。

「うん、たまにはあるだよ。こう見えても本流は水がきついで、小型なんかは、底で、ごろりごろりと、何度でも、でんぐり返しを打つんだっぺ。落ちたとこ、なんぼ探しても車はめっからねえだよ」

 乗るときはまだしも、千葉県側へ降りるときが、特に怖かった。以来、一度も利用したことがない。いくら時間はかかっても、佐原の大橋を迂回するのが安全であった。





 金子四郎さんは、千葉の柏市の在、藤心の出身である。藤心とは、また何という美しい地名であろう。六人兄弟の四番目、三男である。藤心に程近く、手賀沼の南部が、深く伸びて切れこんでいる。

 金子さんは、子供のときから、すでに、へらぶなを釣っていた。もっとも、へらぶなという呼称はなく、金鮒に対して、銀鮒と土地では呼んでいた。金子さんの案内で、手賀沼は、私の最初のホームグランドになった。

 手賀南部のおんどまり(行き止まり)を木崎下といい、そこに、庄ヱ門という農家があった。大東京をちょっと出外れたところに、こうも片田舎があるとは驚きであった。赫灼として衰えを知らぬ曾祖母(ひいばば)を家長とする、大家族の平和は、都会との、あまりの格差によって、むしろ現存し得たのかもしれない。納屋には、古い樽がいくつも並び、沢庵はおろか、味噌、醤油など、すべて自家製であった。

 庄ヱ門のエンマ(繋船用の掘割)で船をかり、釣りに出た。冬場は、おだ(樹の枝や、丸竹などを沈めた一種の魚巣)のふちを釣り、暖季は、睡蓮藻などの穴を狙った。魚影は濃く、貫目釣り(四キロを越す大釣り)も珍しくなかった。間もなく、金子さんの口利きで、我孫子(あびこ)の大工に釣舟を造らせ、紅殻で赤く染めた。赤い舟は、長らく木崎下の名物であった。自分の釣舟を持つ贅沢は、まだ当時としては、はしりであったかと思う。

 金子さんに案内されて、私の釣場は急激に拡がり、私も次第に、へらぶな一本槍となり、海釣りや渓流は自然おろそかになって行った。

 俗に水堰橋(すいせきばし)といわれた釣場は、利根の本流に直結した川が橋のところで堰とめられていて、増水のあとなど、本流の濁りに押されて威勢のいい大型が乗り込んでくるので有名であった。旧水戸街道の柏の先を、醤油で知られた野田の方へ折れて行くのであるが、かつて、私の所属した工兵隊がその途中にあり、演習などで歩き廻った地区だけに、懐かしさも手伝ってよく通った。

 取手(とりで)の鉄橋の千葉県側に、三ツ池といって、小池が三つ並んでいた。また、古利根という、静まり返った、情趣の深い大池もあった。鉄橋を越して右へ折れると、堤防の外の野地(やち)に、外猿島(そとさしま)という幽邃(ゆうすい)な池があり、ここは特に素晴らしかった。

 河原をぎっしりと埋めつくした揚柳の林が、春を迎えて、いちめん萌黄色に輝くとき、その中に、ぽっかりと口をあけた池の水の清らかさは、底の底まで澄みわたり、ひとを瞬間、靉靆模糊(あいたいもこ)の夢幻境へと誘った。ひとり陶然として身を横たえ、空を仰いで雲雀(ひばり)をきいていると、遠く、堤防下の洗場(だし)に人影が現れ、水を汲んだり、米をといだりする。人物の点景を得て、風景はいよいよ和みわたり、羽化登仙(うかとうせん)の妖しさである。まさしくこれは、中国の田園の美しさにちがいない。行ったこともないのに、私はひとり、きめていた。
「そう。全くその通り、中国の田舎そっくりですとも」

 金子さんが太鼓判を押してくれた。金子さんは、歩兵として、北支を六年近くも転戦したひとである。

 堤防の内側には、外に呼応して、内猿島(うしさしま)というものがあり、その形から名付けられた股引沼などは、かなり有名であった。そのほか、数え上げれば際限もないが、小林から安食(あじき)へかけての湖沼地帯へは、特によく出かけた。へらぶなという魚は神経質で、ちょっとした日並の具合であぶれることもあったが、総体的には、どこへ行ってもよく釣れた。

 坂東太郎と呼ばれた利根川は、昔から秋口ともなると氾濫を繰り返し、しばしば、本流の道筋を変えたらしい。治水工事が進むにつれて、現在の川筋が定まったが、昔の氾濫のあとに、無数の池や沼を残した。安食の水郷がそれである。印旛(いんば)沼落としの長門川と、長門への口を堰とめられ、流れのなくなった将監(しょうげん)川と、手賀沼落しの、六間川、弁天川を除いては、すべて無数の小沼が集まっていた。

 安食へは、前にも度々行ったことがある。土地でただ一軒の、稲田という釣具店に我儘を言って泊まりこみ、長門川の大やまべ、水門外の、利根のせいごを釣ったりしたものである。東作の古い見事な鮠竿を強引に譲りうけたこともあった。稲田釣具店は、今も昔のままに栄えている。

 将監は結構長い川であるが、農舟も少く、当時は全部岡釣りが常識であった。五ヱ門沼からの落口を、五ヱ門の吐出しと称し、その狭い岸辺が、最良のポイントであった。

 釣師は、一番列車を小林で降りると、殺気立った足どりを、五ヱ門の吐出しへと急ぐのである。たまたま、ポンコツの外車をもっていた私は、その点有利であった。柏で金子さんを拾い、一番列車が着く頃には、私たちはもう、すまして竿を出していた。息せき切って馳けつけた常連が、いまいましげに呟いた。

「あれッ、また来てやがる。どこの奴だい、こいつら、赤帽なんかかぶりやがって」

 私たちは、いつもお揃いの、真紅の赤帽をかぶっていたから、よく人目についたものである。


 この赤帽については、挿話がある。

 金子さんは、前から空気銃の名手で、出生地の藤心を中心に、寝鳩を射っていた。鳩の習性は、必ず二、三の決った樹へ帰って夜を過ごすのである。その樹は、根元の夥しい糞から容易に探りあてることが出来た。夕暮に近く、かねて目当ての樹の下で静かに張っていると、鳩が帰ってくる。そこを落すのが、寝鳩射ちである。

 おっちょこちょいの私は、すぐに感染して空気銃を買ったが、私には、一羽も落せなかった。たまたま、京都の銃砲店で中古のブローニング五連発を見つけ、大枚をはたいて買った。散弾ならば命中率も高いわけだが、まず、あたったためしはない。

 本式の猟銃では、寝鳩でもなかろうと、小綬鶏(こじゅけい)をやった。小綬鶏は、民家近くの叢などにひそみ、人が近づくと、飛んで逃げる代わりに、そのまま息をひそめて、人をやり過ごそうとする。うっかり踏み込むと、いきなり足もとから、羽音高く飛び立って、ぎょっとさせられることがある。しかも、雉(きじ)や山鳩のように一旦高く舞い上がることをしないので、目標が低く、仲間の顔を射った例はいくらでもある。私は、危険予防のために、鍔(つば)広の赤帽を渋谷の道玄坂で見つけ、猟のときだけでなく、釣りの仲間にも配っていたのである。

 プロの五連発は、ずっしりと重く、撃った手応えも大きいが、音も大きい。藤心のそばに大島田というところがあり、そこの婆さんには、通りがかっただけで、もう怒鳴られた。

「また来やがったな、この赤帽子奴、おっ魂げるでねえか、耳のそばでぶっ放しやがって!」

 森閑と静まりかえった、平和な村なかに、突如、轟音を響かせるのは、全く無法もいいとこで、私たちは、とんでもない悪童であった。

 一時は、手賀沼に船を浮かべていても、弾込めした五連発を脇に置き、鴨が降りたとなると、釣りをやめ、静かに船を漕ぎよせて行ったものである。鴨は、かなりのところまで私たちを引きつけておいて、一斉に飛びたち、頭上高くふりかぶってくる。そこを、盲滅法、空に向かって撃つのだが、鴨は、着弾距離をちゃんと心得ていて、悠然と去って行く。全然、届かないのである。潮来(いたこ)の水郷でも、釣場へ急ぐ細流(ほそ)の朝霞の中に、ふいと鴨が浮かんでいることがあり、待ち構えていてぶっ放すのだが、船が揺れていて、あたったためしがない。不心得な釣師があったもので、悪ふざけが過ぎていた。

 芸の巧い猟犬を二頭も手に入れ、遠く、蔵王や伊豆へ出漁したこともあるが、雉(きじ)も山鳥も姿を見るだけで一度も落せなかった。まして、標的の小さい鶉(うずら)や鴫(しぎ)を落とせる筈もなかった。やはり、普段から、クレー射撃などで十分に練習を積まなくては無理なのである。せいぜい、禁制の椋鳥(むくどり)とか鵯(ひよどり)を、据銃で落としたぐらいのもので、血を流す小鳥は、いかにも残酷であった。鉄砲は、金につまったある年の瀬に、カメラなどと一緒に売ってしまった。

 当時の釣師は、着古しのつぎの当たった衣服をつけ、今にも臭いだしそうな、乞食のような、むさい風体が多く、乗物の中では、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うほどであった。磯釣りの連中だけが、やはり危険防止の建前から、黄や赤の帽子や服をつけていたが、どうかすると、ちんどん屋のようだと笑われた時代である。私たちの赤い帽子は、実によく人目を引いた。

 後年、仲間と「銀座へらぶな会」をつくったとき、たしか、西武園の釣堀開きの帰りの車中であったが、私の発案で、赤帽を制帽ときめた。「浅草へらぶな会」の古老たちが、私の着想を大変面白がって、すぐ、黄色の制帽を採用した。私たちの会の、初の例会は新橋駅集合であったが、見ると、誰一人制帽をかぶっていない。町なかでは、あまりにも奇抜で気恥ずかしく、みんな、懐中深く隠していたのである。釣場に出て、はじめて赤帽が揃ったというのは、今考えると全く滑稽であった。

 鍔広の色帽子は、またたく間に、他の釣会にも蔓延し、服装もそれにつれて派手になり、次第に、滔々として、へらぶな師の風俗として定着したのは、我ながら面白く、付和雷同するばかりで独創性に乏しい私にしては、偶然の珍果であった。


 金子さんは、十代の頃、神田の、親戚の寿司屋を手伝ったりしたが、間もなく、国鉄の尾久客車区に入った。適齢で軍隊にとられ、六年近くも北支で戦ったのち、復員して元の職場に戻り、そこから、松戸の電車区に移った。

 私は、映画が忙しかったが、出番のない休みの日が、突如、ぽかりと廻ってくる。

「釣りに行きたいんだけど、都合はどう?」

 電話をかけてみると、答えは、いつも決まっていた。

「O・K いつでも言って下さい。いつでもO・Kですから」

 私は、勤めの方に響きはせぬかと心配であった。しかし、金子さんは、笑うだけで答えない。

「なあに、へっちゃらでさあ」

 この事情は、ごく最近になってやっと分かった。当時金子さんは、「欠勤王」と綽名がついていたが、決して、お袋を殺したり、親父を病気にしたわけではなかった。なすべきことは、人を抜いて、実にかっきりとやり遂げていたのである。東京には、十二の電車区があり、電車整備のコンクールがあった。松戸に、はじめて優勝の栄誉をもたらしたのは、金子さんである。仕事の腕だけではない。部下思いの金子さんには、絶大な人望があった。電車区の汚職を勇敢に摘発したのも金子さんである。石炭を喰ったとか、砂利を呑んだとか、積荷の横流しの噂は前からあったらしいが、臨時傭いの人数の水増申告の事実を突きとめた金子さんは、出勤簿の公開を拒む上司の前で、金庫を叩き破って書類を引き出し、自らの、作業日報の写しを添えて、動かぬ証拠を提出したのである。臨時傭いの、ただでさえ気の毒な、弱い立場につけこんだ区長の汚職は、金子さんの憤激を押さえることが出来なかった。区長は追放され、そのことは新聞にも出た。そして、電車区には、明るい日が戻ってきた。

「この野郎、雨が降ると出てきやがる」

 上役は苦笑するばかりで、この「欠勤王」をとがめることが出来なかった。何よりも、部下の人望が金子さんを支えていたのである。

 金子さんは、すでにその頃、姉さんの営む駄菓子屋の片隅に、僅かばかりの釣具を並べて売っていたが、いずれ近いうちに国鉄を退き、退職金をもとに、本格的な釣竿の問屋を始める決心を固めていたことも、欠席を恐れない原因であったかもしれない。

 間もなく、金子さんは国鉄を辞めた。竿の問屋業は、必ず、これという竿師を掌握しなければならない。金子さんは紀州竿の総師、竿春に目をつけたのである。紀州竿の本拠は、小説で有名な紀の川を挟んで、橋本と清水あたりである。金子さんは紹介状も持たず単身、清水の竿春を訪ねた。ちょうど、一番弟子が一本になるところで、竿春は、名前を弟子に譲り、自らは源竿師を名乗ることとし、二代目竿春は、金子さんの招請に応じて東上することときまった。

現在でも竹竿の愛好者は多く、カーボン竿にない味わいを楽しんでいます


 竿春は東上にあたり、新婚の若妻を携えてきた。そのとき、二十三歳。色白の初々しい丸顔は、これでまともな竿が作れるのかと、私は首をかしげたほどであった。若妻さんは、喫茶店に勤めていたとかで、竿春は、東京へ旅立つ駅頭に母親を呼び、そこで新妻をはじめて引き合わせ、そのまま二人で発ってきたという。どこか、明治の小説にも出てきそうな情景が偲ばれて、私はいきなり厚意を抱いたことである。夫婦は殆ど無一文であった。

 住居をきめ、仕事場をつくり、金子さんは営々として走り廻った。こうと思うと、とことんの人で、それも八方破れのがむしゃらである。退職金はたちまち底をついた。ようやく落ちついたところで、竿春の奥さんが病気で倒れてしまった。資本はおろしたが、肝心の商品は一向に出来上がらない苦境は、入院費にも事欠く始末であった。

 ある日、安食(あじき)の将監(しょうげん)で釣っていると、金子さんが釣りをやめ、私の背後にかがみこみ、じっと私の浮子を見つめている。私も無言なら、彼もだんまりだ。釣る阿呆に見る阿呆で、私たちは、まさにその、のどかな天真爛漫のひとときと見えた。しかし、ドラマは進んでいたのだ。長いことたって、金子さんが呟くような小声を出した。

「お願いがあるんですけど」

 振り向いて、私はどきりとした。真蒼な顔に青筋が浮かんでいる。

「どうかしたの?」

 と聞くと、それ切り答えない。そのうち、絞るような声で重ねて言った。

「一生のお願いがあるんです」

 今度は私が黙った。しばらくして、金子さんがつづけた。

「何も言いません。拾万円、貸して下さい」

 金子さんは、内訳の事情をひと言も説明しなかった。というより、説明できなかったのである。どこまでも律儀な、まっすぐな気性の金子さんには、口に出すことさえ並大抵のことではなかった。それだけに、金子さんの苦しさが、ありありと私に伝わってきた。実は、あとで聞いたことだが、その前の日、私は金子さんを江戸前のはぜ釣りに誘っていた。金子さんは、そのことを言い出そうとして、終日煩悶したが、ついに言い出せなかったのだという。

 ひと口に拾万円というが、なかなかの大金である。余裕がないので困ったと思ったが、私はすぐに承知した。どこからか借りればよいと思った。この金は、勿論間もなく、きれいに返してくれたのだから、金子さんには、何の負目(おいめ)もない筈である。しかし、このささやかなことを、金子さんは死ぬまで忘れようとはしないらしい。今や盛大な問屋に発展した金子さんを訪ねて、ふと、竿を買ったりすることがあるが、さて支払いとなると、頑として金を受け取らない。

「まあいいじゃないですか、持ってって下さいよ」

 たも網にしても、竿袋にしても、何ひとつ金を取ってくれないのである。

「いいじゃないですか、キワ払いで」

「キワ払いって?」

「キワというのは、月末のことですよ」

「どうせ月末に払うくらいなら、今、払うよ」

「キワというのは、年末のことも言うし、一生の終わりも、キワはキワですわ」

 どうやら、死ぬキワまで受け取らないつもりかもしれないのである。私にも随分借金の思い出があり、恩を受けた有難さは、いつまでも忘れられない。しかし、忙しさに取り紛れ、忘れてはいないつもりが、いつのまにか、忘れ去ったも同然のことになり勝ちである。金子さんの真似は、私にはとてもできない。

 釣りの店「ポイント」を日比谷に移したとき、私は何としても店を盛り上げたいばかりに、金子さんの応援をもとめたことがある。金子さんは即座に引き受けた。

「いいですとも。忙しいのは、竿が入荷したとき、そいつを小売りやさんに卸すときぐらいのもんで、あとは、いたって暇ですから」

 私は、勿論、僅かながらも月給を考えていた。金子さんは、笑い飛ばした。

「鐚(びた)一文くれても、あたしゃ、やりませんからね」

「だって、交通費もかかるし、昼飯も喰わなくちゃならんし」

「へっちゃらですよ、そんなもん、自分でやりますよ」

 言い出したら、手のつけられない人である。金子さんは、約束通り、その後一年間、無報酬で店に通いつめてくれた。私の方が、よっぽど世話になっているのである。

 源竿師の住む、紀州の清水あたりでは、冬のうちに刈り取った竹材が、屋根の上、刈田など、至るところに、美しく一本並べに干してあり、村ぐるみかと思うほど、竿師の数が多かった。

「お前みたいな、勉強嫌いのぐうたらは、竿師の徒弟にでも使うてもらえ」

 高校へ上がったものの、遊ぶばかりで碌に出席もしない竿春は、強制的に、初代竿春のところに預けられたが、釣りにも竿にも全然興味を抱かなかった。やる気十分の少年は、みんな出世を夢見て大都会へ出て行った。

 寒空に早く起きて、今日こそは叱られまいと、一生懸命、七輪に火をつくる。竹の灼入(ひいれ)に必要な火は、竹の蕊に通るほど強く、竹の表を焦がさないほど柔く、しかも万遍なく、静かな火焔(ほむら)でなければならない。火造りは、竿作りの重大な決め手である。

 師匠が起きてくる。

「何や、こないな阿呆な火つくりよって!」

 大喝とともに、七輪はたちまち庭先へ蹴落されてしまう。こんな風で、初代竿春の躾は厳格を極めた。

「ほんまにもう、いやでいやで、泣きの涙でしたわ」

 とは、今の竿春の述懐である。

 苦労しただけに、竿春の名を継ぐ頃には、もう、いっぱしの腕っこきであったが、当時の竿春には、いかにも欲がなかった。へら竿とは何であるか。職人ではあったが、竿についての哲学は薄かった。へらぶなを釣ったこともなかったから、釣りに対する愛着もなく、竿に対する執拗な探究心は、まだ当時生まれていなかった。しかし、竿春の名は、少しずつ関東でも高まってきていた。金子さんの商売も、ようやく軌道にのりはじめていた。

 そんなある日、金子さんは、竿春との縁を断ち、竿の問屋をやめてしまったのである。ちょうど私は仕事が忙しく、暫く、音信が切れている間の出来事であったが、聞いて私は驚いた。

「上方の贅六には、全く愛想がつきた」

 金子さんは、ひと言私に愚痴っただけで、詳しい経緯は何も語らなかった。もちろん、竿春にも何も言わなかった。ただ訣別の通告をしただけである。その後、二十年もたった、つい去年のこと、金子さんは、はじめて聞いたそうである。

「あの時、俺が何で怒ったか、分かってるのか?」

「知ってる」

 たったそれだけである。竿春の、その後の目ざましい成長と、現在の、師匠を凌ぐほどの、貪婪(どんらん)な竿作りの執念を思い合わせるとき、私はそこに、人間関係の美しい機微を感じないわけにはいかない。

 要は、一方的な金子さんの怒りであった。おそらく竿春は、金子さんを怒らせるとは、思ってもみなかったのではないか。竿春は、奥さんの病気恢復とともに、せっせと竿を作って金子さんに納め、やがて、金子さんへの借り分は全部竿で返し切り、あとは、正常な、問屋対竿師の取引を進めればよいと思っていたらしい。そこへ、他の問屋からも買いがかかった。その分だけ余計に竿を作れば、別に金子さんに迷惑をかけるでもなしと、竿春が簡単に考えたのも、あながち無理ではなかった。人気者の竿師には、普通、問屋が複数で入っていた。竿師も商売である。条件によっては、問屋を乗換えることも珍しいことではなかった。また、問屋の求めによっては、竿の銘柄をそれぞれ違えて渡すことも、半ば常識であったからである。

 しかし、それを許すには、金子さんは、あまりにも深く竿春にはまりこんでいた。総代理店として、どこまでも一蓮托生、すべての浮沈をかけていた。それだけではない。紀州に竿師の村があり、埼玉県に川口竿の本場があるように、柏にもまた、関東へらぶな竿の集落を形成しようと、金子さんは大望を抱いていた。そのつもりで、竿春を柏へ呼んだのである。金子さんは悩んだが、しかし堪えた。そのうちに、竿春は、車を買った。

「職人の分際で、車なんぞ乗りやがって!」

「大きなお世話だ。借金は返したし、俺の金で何をやろうと、文句をつけられる覚えはない!」

 まさか、そうは言わなかっただろうが、ぴかぴかの新車を乗り廻す竿春の姿は、嘯き(うそぶき)とも居直りとも金子さんには映ったにちがいない。金子さんは、きっぱりと絶縁を宣した。金子さんには、忘れられない挫折のひと駒である。

 暫くすると、金子さんは突如、柏の駅前横丁の、知人の家の軒先を借りて、惣菜屋(おかずや)を開業した。間口二間半、奥行一間ほどの小さな店である。屋号は、浅草の人気者、大宮敏光さんの許しを得て、「でん助フライ」と名乗った。実は、開店の知らせをうけ、お祝いに行ってはじめて、竿春との絶縁を知ったような始末で、釣りが好きなばかりに竿の問屋をはじめた金子さんが、きっぱり廃業に踏み切ったのにも驚いたが、惣菜屋開業には、二度吃驚(びっく)りであった。

 金子さん夫妻を先頭に、若者二人、女の子二人、土曜の特売日には、さらに応援の二人。狭い店の中で、全員お揃いのオレンジのシャツが目ざましく、てきぱきと威勢のいいこと、魚河岸の朝市にも負けなかった。創業の三日間は、思い切った大売出しをやった。当時、泥のついた馬鈴薯は百グラム五円であったが、コロッケの売値は、百グラムわずか四円、時価の約五分の一であったから、客は延々長蛇の列をなし、「でん助フライ」は、たちまち軌道にのってしまった。

 私は、その頃が映画の一番忙しい時であったと見え、その後の詳しい消息については殆ど知らない。一年半以上もすぎていただろうか。次に知ったのは、「でん助フライ」廃業の知らせである。例によって、事情は一切語らなかったが、人間関係の縺れが原因であることは容易に想像がついた。普通、相手との間に、適当な隔てを保つことが賢明な処世術とされている。苦労した人ほどその辺のコツを心得ていて、つかず離れず、不可侵の平和が保たれる場合が多い。しかし、金子さんの、まっしぐらな直情径行は、見せかけの笑顔の裏に、陰謀と裏切りを嗅ぎつける。怒りっぽい我儘とだけは言えないのである。

 ある朝、河岸(かし)から帰ってきた金子さんは、突然、仕入れてきたばかりの魚を、路上一杯にぶちまけた。これが、「でん助フライ」のあっけない終焉であった。