思い出の釣り(4)

2020年2月17日

冬の道仙田


 利根川を越したところで、水戸街道を右に折れ、竜ヶ崎への近道を行くと、町の手前に、道仙田(どうせんだ)というところがある。これは、旧小貝川の氾濫の名残の池で、川のような帯状をなしていて、奥のおんどまりの部分が釣場になっていた。

 昔、関東では、冬場は、へらぶなが殆ど釣れなかった。へら鮒専門の釣り会でも、冬の二、三ヵ月は、オフシーズンとして、月例会を休んだ。従って、へらぶな師は、冬は釣堀に通い、せめてもの鬱憤を晴らしていた。関西では全盛の釣堀が、東京には、小池、金木など、ほんの二、三に限られていた時代のことである。

 釣堀で釣れるへらぶなが、野池で釣れない筈はないと、熱烈なマニヤは、冬の野へも出かけて行った。私なども屡々出漁したが、まず、釣れたためしがなく、すぐ、真鮒釣りに転向してしまった。佐原の水郷地帯では、真鮒師ばかりが出ていた。岡からの、脈釣り、しもり釣り、船の並べ釣りなどが、冬の水郷の景物であった。

 そんなとき、冬の釣場、道仙田のことを新聞で知った。そこで、早速私は飛んで行った。のちには、多田島の江湖とか、砂場の池とか、ほかにも二、三の冬の釣場のあることを知ったが、いずれにしても、ごく限られていた。

 へらぶな釣りの開拓者には、底抜けの気狂いがいて、夏場のうちに水に潜り、地底の変化を克明に記録したり、水を採取して分析に出し、プランクトンの多寡を調べたりした。特に、水温の統計をとり、すでに、ある程度の結論を出していた。へらぶなの、最も活発な就餌温度は、摂氏の約十五度ぐらいを頂点とし、上昇するにつれて鈍くなること、また、冬、就餌温度の下限の七、八度ぐらいを降ると、魚は冬眠状態に入り、餌を見向きもしなくなること、つまり、湧水などがあり、就餌に適当な温度を保つ場所だけが、冬でも釣れるということになっていた。しかし、湧水のせいばかりではないらしく、その後、冬場に挑戦する釣師が増え、餌や浮子の研究も進み、魚の飼い付けも利いたことから、寒べら釣りは、一躍脚光をあび、どうかすると、春先の不安定さに比べれば、冬のほうが却って確実だとさえ言えるようになったが、当時としては、冬の釣場は極めて珍しかったのである。

 おんぼろの水舟がひとつある切りで、全員、岡っぱりであった。おんどまりの粗朶(そだ)廻りは川幅が狭く、短竿ですんだが、殆どは、二間半以上の長竿を要した。ここは、入漁料をとった。管理人の小さな家があり、そこは、母親が息子と二人で住んでいた。

 そもそも、土地のひとから権利を買い、この釣場を開発したのは、へらぶな釣りの先輩たちの努力によるときいているが、詳しいことは知らない。

 朝早く着いてみると、一面に氷が張りつめている。氷を割る必要があった。長いロープの先に石などを結び、岡から反動をつけて投げこみ、何度も繰返し曳いてくるうちには、釣座の前に、竿を振りこむだけの、細長い水面が開くというわけだ。これがなかなか巧く行かなかった。重量がすぎると遠くへ飛ばず、形が悪いと、すっぽり氷に喰い込むだけで、煽っても曳いても抜けて来なくなる。結局、一尺ほどの角材の角を丸め、大きな鉄環をとりつけ、そこへロープを結ぶ。丸環の根は、どの方向へも首を振るよう、自在にすることで、どうやら目的を達することが出来た。氷割器は、いつも車に積んで行った。

 焚火のための薪も必ず携行した。それと、もうひとつ、野外炊爨(すいさん)の道具一式及び食料。これだけは欠かせなかった。冬の屋外の昼飯には工夫がいった。今ならば、数々の保温器が出廻っているが、その頃は、あったとしても効率の悪いものばかりで、やはり、焚きたてのメシと、熱い味噌汁にまさるものはなかった。

 野の寒さは予想外のもので、どんなに着膨れていても、ふと気付いてみると、体が硬直している。多田島の江湖で、釣友、細川俊夫君と釣っていたときのことである。朝から、北風がまともに吹きつけていた。私は、急におろおろと、両手を細川君に示して訴えたものである。

「飛んでもないことになっちゃったよ。ほら、見てよ、この指!」

 剥製の動物のように、指が全く動かなくなってしまったのである。私は以前から、指に多少の欠陥があった。それが、いよいよ、最悪の事態に立ち至ったのかと、狼狽したのである。

 細川君が、笑いながら、私と同じように、両手を上げてみせた。

「ひでえもんですね。僕も、ほら、この通り!」

 彼の指も、殆ど硬直したまま、竿も握れないというのである。人の指を見て、我が指に納得がいったというのは、いかにも滑稽であった。

 こういうこともあった。私の弟が、横利根川の同じ場所で三日間、筑波おろしの寒風に、顔の右半分をさらして釣っていたところ、その翌日あたりから、急に平行神経に異常を来し、まっすぐに歩くことも出来なくなった。やがて、吐気を催すに至り、急拠入院となったが、左の頬を下に、半分俯伏せに寝たまま、食事もとれなくなってしまった。脳内腫瘍の疑いが濃く、頭蓋切開の手術もあと三日ときまった。弟はいよいよ死を観念したらしく、見舞客の誰彼に、涙を流して言った。

「僕はもう、おしまいなんだってさ」

 私たち肉親のものは、お別れのつもりの見舞いであったから、ひとしお、哀れであった。

 しかし、脳内腫瘍にしては、視神経があまりにも明確であるところから、手術は一応延期となり、なおも、精密検査をつづけるうち、病勢は好転しはじめた。薬も飲まず、注射もうたず、弟は一ヶ月ほどで退院したが、今は元気で、相変わらず釣りをやっている。脳内腫瘍ではなく、メニエル症候群だったのである。

 いずれにしても、冬の野の寒さは、まことに壮絶である。だからこそ、あの茫々とかすんだ冬の風景が格別に美しいとも言えるのだが、冬の対策には誰しも頭をいためるのである。私などは、一時、アイスホッケーのゴールキーパーよろしく着膨れて、身動きも出来ないほどであった。冬との戦いには、焚きたてのメシと、熱い味噌汁は卓効を見せた。何はなくとも、飯盒炊爨の道具一式は必需品であった。

 管理責任者の母親は、疳高い調子の、口やかましいひとであった。

「うるせえなぁ、糞ばばぁ!」

 釣師がよく、聞えよがしに罵ったりした。しかし、これは、釣師の側にも責任があるらしく、逢ってみると、なかなかの知識人で、物の分かった親切な婦人であった。都会風な気位の高さが、釣師たちの庶民性と折り合わなかったのかもしれない。

「まあまあ、そんなお寒いところで、お食事ぐらい、家へお越し下さいましな」

 私だけは特別扱いで、よく、家へ請じ入れられた。映画などで顔が売れているからではなく、芸術方面のことに十分理解のある人物として見込まれていたらしいのである。婦人は、自分の古い著述なども私に見せ、縷々(るる)として語った。戦争中の、一時の疎開のつもりがそのまま長引き、いまだに田舎の片隅に蟄居を強いられているが、周囲の無理解な白い眼には、ほとほと閉口であると愚痴った。私は同感しないわけではなかったが、見せられた単行本は、粗悪な紙の、戦時中の出版で、さほどの内容とも思われず、誇り高き自称女流詩人と道仙田との取り合わせは、いかにも奇怪であった。

 息子がまた変わっていた。朝から晩まで、ひっ切りなしに、ギターの練習をするのである。戦後、歌謡曲が凄じい勢いで復活し、ギターの弾き歌いに興じる農村青年は沢山あったが、彼のは、れっきとしたクラシックである。ギターの音は、終日、釣場へ流れてきた。はっきりしたメロディではなく、どこまでも、運指のための練習曲である。片田舎の釣場にはあまりにも唐突であった。

「あーあ、好い加減やめてくんねえかな。疳が立ってくらあ」

 釣師がぼやくのである。

「お袋がお袋なら、倅も倅。変人もいいとこ、気狂いだぁね。全く」

 母親と話しこんでいると、珍しく、息子が顔を出した。

「いかがです、釣れましたか?」

「いいえ、さっぱり」

「じゃ、ご飯の間、私がちょっと」

 と、息子が出て行った。私が釣場に戻ってみると、彼はもう、十何尾も釣り上げていた。もちろん私もオカユ練りで釣っていたが、練りが固すぎたのである。彼は、今にも垂れんばかりの、軟い小さなオカユ練りで、見ている間にも、次々と釣った。

「やっぱり、土地の人のにはかなわないなあ」

 と、賞めると、

「いや、私のは、本職ですから」

 と言う。

 趣味でないとすれば、職漁者ということになるが、彼は笑うだけである。あとで、母親が誇らしげに語ってくれた。

「親思いの子でしてねえ、藻えびをとったり、鮒を売ったりで、私たちの生活は、殆どあの子一人で立ててくれてるんですよ」

 さりげないその口裏から、戦争直後の生活の痛ましさが、却って生々しく、滲み出ていた。そういえば、当時、田舎の御祝儀では、鯛の代わりにへらぶなを使ったもので、水郷あたりの魚屋には、よく、へらぶなが並んでいたのを覚えている。

 他にも冬の釣場が開拓され、道仙田には次第に遠去かった。長らくたったある日、一枚のポスターが、私を驚かせた。中林淳真さんの、ギターの個人リサイタルである。道仙田の、あの息子であった。彼は、その後も、本場のスペインにわたり、今は、かくれもない、フラメンコギターの名手である。流行の波の外の一匹狼として、演奏だけではなく、作曲にも、精力的な活躍をつづけているのは、まことに嬉しい限りである。

 つい先日のことである。私は、見知らぬ人から小包を受けとった。差出人は、英 美子(はなぶさ よしこ)とある。どう考えても、心当たりがなかった。封を切ってみると、「ANDROMEDAの牧場」と題する、立派な詩集である。それでも、まだ思い出せなかった。本の中に、折り込みの小さな紙片があり、私は、はじめて思いあたり、あっと声を上げた。

「もうお忘れのことと存じますが、昔、道仙田でお目もじをいただいた美子でございます」

 糞ばばあと罵られた、あの母親である。私は早速詩を読み進んだが、溌剌とした、瑞々しい詩魂は驚くばかり、詩形も、言葉も、颯爽として鋭い。もう、かなりの高齢とも思われる老女流詩人の、撓みのない道一筋の精進のほどには、ほとほと頭が下がった。それにしても、かつて、粗悪本の詩集をないがしろにした私が、今、豪華本を前に感嘆するとは、何という野暮天であるかと、恥じ入ったことである。

 すぐに礼状をと思ったが、字を書くのももどかしく、巻末の番号をたよりに電話をかけてみると、いきなり電話口に出たのは、忘れもしない、英さんの、あの疳高い、若々しい声であった。私には、ときにとっての、清々しい励ましの響きであった。

 道仙田はいま、竜ヶ崎市営の釣場として、大きく飛躍するまでになったが、地元との折り合いがつかず、計画は、いささか中だるみときいている。