へら竿のすべて(1)

2020年2月17日

竿に托す釣り人の夢


 長い間いろんな釣を遍歴しているうちに、だんだんへらぶな釣り一本に絞られてきたのは、私にとってごく自然の成行であった。へらぶな釣りのすべてが、自分の性に合ったからだと思っている。いろんな釣りの中で、かつて私が特別に魅かれた釣りのすべてが、あとで考えてみると極めてへらぶな釣り的であった。微妙なアタリと合わせをたのしみ、竿を愛する釣りの良さのすべては、へらぶな釣りに集大成されているといっても言い過ぎではない。

 竿に対する関心と愛着は、昔から人一倍強かったようである。それが、へらぶな釣り一辺倒になってからは、急激に、殆ど盲目的に恋着するまでになった。よいも悪いもない、仮りにも何んの某といわれるほどの人の作ならば、せめて一本宛も網羅して持ちたいなどと欲張ったこともある。ただもう眺めているだけで、へら竿は愉しいのである。その調子、その美しさ、その繊細さ、その剛気さ、その格調の高さ、どこから見ても、へらぶな竿は釣り竿の中の王者である。

 へら竿の制作ほど、ユニークなアイデアと高邁な見識、綿密な技術、忍耐と時間が要求される釣り竿は、ほかに類がないのではないか。言ってみれば、あらゆる釣りの、竿というものに託す釣り人の夢すべてが、へら竿の中に渾然と開花しているのであって、竿というものをここまで発展させて下さった先人名匠のご苦労には、全く文句なしの敬意を捧げねばなるまい。

 名竿は一朝にして成らず。名竿はまことに彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の芸術作品とも讚うべきものと思う。

 以下思いつくままに、へら竿をめぐって漫歩をはじめるのだが、本来釣りというものは、各人がそれぞれの体質気風にしたがって、天衣無縫にたのしむものであり、それはそれでよいのである。とすれば、釣りに関する百般の意見は。それがどんなに相容れないものであっても、そのすべてが正しいとも言えるのである。竿についても同じことで、甲の良しとする竿、必ずしも乙の良しとするところではない。各人がそれぞれの好みにしたがって選択し、取捨すればよいのであって、それはそれでよいのである。

 しかし、釣師は理窟がお好きだ。特にへらぶな師はしつこいので有名である。もしその理窟が自分一人だけの独りよがりな放言でないならば、物事の千差万別、多種多様は少しずつ整頓されて一つの道をなし、ついにはたった一つの真実へと導かれて行くよすがとなる筈だ。大体へらぶな釣りというものが、十分な理論にも堪えるだけの奥行きを持っているのであって、追求して行くと、よい釣りも、よい竿も、やはり一つしかないということになってくる。しかし、なかなか、それが一つにならないのである。特にへら竿については、釣り人の研究不足が目立つばかりで、いつまでたっても、まぎらわしい観念と決め手のない評価が宙に浮いているように思われる。

 あるとき、釣友の松本豊さんが遊びに来て下さり、談たまたま竿の良否に及んだ。そこで私は、名竿の見本として旭匠師の丈六(じょうろく)ぬけさく一本と、出来損ないの見本として私の作った丈六一本をお渡ししたのだが、松本さんがいつまで待っても庭から上がって来ない。出てみると、目を閉じたまま、何度も何度も振りくらべては唸っている。

「いや参ったよ、聰さん、こうやって眼をつぶっていると、いったいどっちの竿がよいのやら、どっちが誰の作なのやら、私にはさっぱり判らない」

 この発言には私も魂消(たまげ)たことである。天下の名竿と、私ごとき素人の手なぐさみは、本来、月とすっぽんよりも、その格差が歴然としているのである。本来、比べる方が無理なのである。にも拘わらず、松本さんによれば、区別がつかないという。これは、竿の良さも判らないが、悪さも判らないということだ。つまり、多少の目利きと自惚れていた松本さんの自信が、見事に覆されてしまったと、しきりに概いているのだ。

 もちろんこれは松本さん独特の愉快なおとぼけなのだが、中に一分の本音があったことはたしかだと思う。やはりへら竿というものは、ただの勘や好みだけだは追求しきれないのではないか。そこには、明らかに理論がある。へらぶな釣りはバランスの釣りだといわれ、そのバランスの大きな支え、もしくは主動部としてのへら竿が、それ自体としてもバランスの極致を目指して発達しつづけてきた事実が、何よりもそれを証明してはいないだろうか。こわいもので、ある人の好みの竿を見れば、その人を全く知らなくても、その人の釣りが想像されようというものである。

 釣りの主体は明らかに人間様にはちがいないのだが、だからといって竿を軽視し、自らの腕力に頼ろうとする釣師は、へらぶな釣りの醍醐味を自らの手で抹殺しているようなもので、それよりはむしろ、竿に縋り、竿に導かれ、竿の中に自らを埋めるような釣りをしたいものである。

 へら竿というものを理解するためには、まず、へらぶな釣りの中で占める竿の重大な位置を、改めて、はっきり認めることから始めなくてはならない。

 このことは、何度でも繰返して言う必要があるように思われる。つまり、釣りの主体はどこまでも人間様であり、竿はその人間様が駆使する手段の一部にすぎないけれど、へら竿というものが、へらぶな釣りのための最も合理的な、最も美しい竿としてここまでの発達を見ている以上、やはり、竿に即(つ)き、竿に随って釣る心構えが最も自然なのであり、そこまでの重大性を竿に認めることが、へら竿を愛し、へらぶな釣りを深める手がかりにもなると思う。

 竿がいいの悪いのと、いろいろに言われているが、いったいどのような基準によるのであろうか。そもそも、そのような基準があるのだろうか。

 もちろんいくつもあり得る。たとえば、耐久性・美術性・材質の良否・技術の巧拙など、どのひとつを欠いても名竿としての資格を失うことになる。

 しかし私は、その中で、最も大切な、それなくしては根本的にへら竿が成り立たなくなるほどの、第一義的な条件は「バランス」であると思う。

「バランス」の妙を極めた竿が理想のへら竿なのである。

 よく、「振込のときは先調子で、取り込みのときは胴にのる」のが、最高の竿だといわれる。そのような表現が全く間違っているとはいえないとしても、数多くの誤解を生みやすい、あやふやな理解の仕方であることはたしかだ。何故なら「胴調子は振り込みに不都合であり、先調子は取り込みに不都合なのか」と皮肉な反問を浴びせたくもなるからだ。竿の生命を「調子」といわずに、「バランス」と申し上げる私の意図も、そこにある。

 良いへら竿とは、追求していくとたった一つしかないということは前にも述べたが、振り込みによし、合わせによし、取り込みによし、つまり、竿のあらゆる操作に当って、常に「バランス」の妙を崩さない、そのような調和の極致を実現している竿でなければ、よいへら竿とはいえないのである。「バランス」という一点に関してはたった一つなのである。その一つの中の、細かい変化として、先調子・胴調子などの分類があるのであって、硬式・軟式などの呼称も、全く同じ意味合いからの小さな区分と考えてよい。そのそれぞれの組合わせによる微妙なニュアンスが、無限の変化を産んでいるわけだが、その間に優劣高低があるとはお思われない。

 バランスの中の、いずれの変化を取るかは、それこそ釣師の個性がきめることであり、その変化をとった以上は、自然の結果としてその竿に最もふさわしい操作を釣師は行っている筈なのである。深い胴調子を愛し、その操作を身につけた釣師にとっては、先調子のほうが、むしろ振り込みに不都合を感じるに違いない。大体、他のつり竿に比べれば、へら竿はすべてが胴調子であり、いわば全体調子なのである。先といい胴といっても決して、本質的な差異ではないと思う。

 竿のバランスは、あくまでも胴の姿で捉えなくてはならない。これは極めて重要である。「竿ばかりは実地に釣ってみないことには分からない」という概きの声をよく耳にするが、これは全く正しいのであって、よほどの目利きでない限り、静の姿ではバランスを捉えにくいものなのだ。

 竿の中央部を指の秤にかけてみたり、竿の自重を秤ったりしても、たいした意味はない。店頭で竿を求めるときの、次善的な一策としては、上下前後左右に相当の空間を見出した上で、前後にあるいは左右に、はじめは小さく、次第に力を加えて、穂先が大きな振幅を見せて往復するまで振ってみることである。

 そして、穂先への負荷が、振るにつれて、どの辺まで溯って動いてくるか、また、その反対に、手許からの勢いが、どのような移動を見せて穂先の方へ逃げて行くかを感じとることである。いつも見ることだが、ひょいと竿先を煽って穂先を波立たせたり、蛇動させたりするあの方法だけは、やめたいものである。

 竿の動く姿は、振り込みと取り込みの二つに大別してよいと思う。

 一つは遠心的な、ひとつは求心的な、いわば相反する二つの性能が良い竿には要求される。そのいずれにも十分応え得て、しかも、それぞれに美しい調和を保ち得てこそ理想的なバランスといえるのである。(合わせということも、竿の動きの中の特徴的な部分ではあるが、一応取り込みのときの前駆的な動きと見て大別からは省いておく)。

 振り込みによって起された力は、手許から穂先へ向って遠心的に、滑らかに移動して行き、その瞬間瞬間のバランスを崩すことなく、そのまま道糸を伝わって穂先にまで逃げて行く。そのようなバランスの良さは、腕力に頼らなくても、竿を立てたあと、自然に竿を前方に倒すだけで、すんなりと目標の地点へ振り込みがきくことであり、いみじくも、羽田旭匠師が喝破された通り、へら竿は「風切り刀」でもある筈なのだ。

 一方取り込みについていえば、合わせは、ひょいと軽く竿を手許へ引くか、竿先を軽く水から抜く程度でよく、あとは腕力に頼らなくても、ただ静かに竿を立てるだけでよいことになる。穂先に加わった力は、その大小に応じて、竿を撓げ、伸ばし、次第に求心的に、滑らかに、重心を手許の方へ移行させつつ、取り込みを容易にしてくれる筈だ。

「振込のときは、鉤先までが竿であり、取り込みのときは、手許までが糸である」

 これも旭匠師の名言である。

 この両面の力の動きの中のバランスを、どのようにして極致まで高めたらよいのか。

 名匠の苦心と精進は、すべてこの一点を目指しているといえるのであって、すぐれた竹材の入手、管理、生地合わせ(切組み)にあたっての緻密な設計、火入れ(竹の焼き矯め)における気合と技術、その他、接合・糸巻・漆作業など、まことに煩雑な、困難な、継続的な作業の一つ一つが、忍耐強く周到に積み重ねられ、克服された末に、ようやくにして生まれる名竿の味を、もっと深く噛みしめたいものである。

 へら竿を愛し、へら竿の神秘を理解するためには、否応なしに、竿作りの実態に触れる必要がある。具体的な竿作りの明細を知ることは、とりも直さず、竿を愛し、竿というものの真髄へ肉迫する一番の近道でもある。たとえば、へら竿の原材である「竹」についてだが、竹の材質の如何が、いかに竿の良否にに深い関係があると知っていても、竹に対するあまりの無智は、へら竿追求のためには、根本的な障害となってしまう。

 以下、いささか、専門的な技術面についてお話しようとする私の意図もそこにあるのであって、別に、竿作りの手引きのためではない。名竿のための理念と、その理念に向ってなされる技術とが、いかに、火花を散らして対応し合っているのか、その、最も愉しい、美しい秘密の実相について語りたいのである。