琵琶湖の釣り(1)
瀬田川のはえ
私は、大学を出るとすぐ、縁あって、大阪道頓堀の舞台を踏むことになった。これが、職業俳優としての第一歩である。その後、二年足らずで、井上正夫先生の一座に加えていただき、主として、東京の大劇場に出ていたが、年に二回ぐらい、京、大阪の関西公演があった。そんなことから、関東者には馴染みのうすい筈の琵琶湖が、私には、若い頃からひどく身近に感じられてならない。旧制三高のボート部の「琵琶湖周航の歌」などは、いまだに、美しい日本の唄として放送されたりするが、当時の若者のロマンティシズムを、いやが上にも昂めたものである。
若き日の思い出は、まず、水泳である。大阪を中心とした海水浴場は、当時すでに混雑を極めていた。泥まじりの砂浜は、須磨や明石の、さらりとした白砂の輝きがなかった。私は、好んで琵琶湖へ出かけた。近江舞子まで行けば申し分なかった。文字通りの白砂青松で、人影もまばら、その爽やかさは、全く別天地であったが、あまりにも道のりが遠く、普通は、柳(やな)ヶ崎へ出向いた。泳いだり、投網(とあみ)を打ったり、日が暮れるまで遊び呆けたものだが、貸しヨットがあった。いま思うと、ガフ・リグのA級ディンギーではなかったろうか。
いずれにしても、一枚帆のお椀ボートである。艤装はすべて係員がやってくれる。ただ乗りさえすればよかった。桟橋を押し出して貰うと、ヨットはたちまち、走り出すのである。私が走らせるのではなく、ヨットが勝手に走るのである。乗馬の始めと同じで、向こうがひとりで動いてくれる不思議さは、どこかむずむずと、くすぐったい気持ちであった。
ある日、突然竜巻が吹きおこり、やがて、沛然(はいぜん)たる雨を降らせた。私は、なす術もなく、沖へ沖へと吹き流されるばかりであったが、係員が機械船を出して救けにきてくれた。しかし、どうしても帰投しないヨットがあり、私たちは、色蒼ざめていつまでも浜にたち、暗くなるまで待ったが、ついに帰らなかった。あとできいたが、そのヨットはマストを折られ、遠く彦根あたりの岸へ漂着したという。乗り手は無事であった。
琵琶湖は、岸から見ると、海かと思うほど大きい。戦後、時代物の撮影では、湖岸の松並木を、海べりの東海道に見立てて、粛々と大名行列を練ったものである。ふだんは、まことに和やかな、女性的な水の優しさが、ひとたび時化(しけ)たとなると、その凄まじい浪風は、悪鬼の跳梁を思わせる。時には靄が立ちこめ、視界も全く利かなくなる。たしか、金沢の旧制四高のボート部が、遭難の惨をひき起こしたのも頷けるのである。ヨットの操縦法を知らぬ私は、そのとき、ほんとに怕い思いをしたことであった。
水ほど懐かしいものはない。しかし、水ほど恐ろしいものも、また、ないのである。それが、海よりも湖沼へと私を誘うのかもしれない。しかし、湖もまた怕いのである。
戦後間もなく、巨匠溝口監督の作品に出たことがある。一本仕上げるのに、約三ヶ月ほどもかかったから、その間には、出番のない休日が沢山あった。美術部の親方が釣りが好きで、よく連れて行ってもらったのが、瀬田川の、はえ釣りである。関東の、やまべのことで、はいじゃこというひともある。
瀬田川は、琵琶湖から落ちる水を満々と湛えて、とろりとゆるやかに、しかし、意外に強い水勢で流れている。ダムに近い下流の方でも釣れるのだが、私たちは専ら、東海道線の鉄橋の上下、瀬田の唐橋を中心に釣った。たまに、石山寺の近くまで釣り下がったこともあるが、それはあとのことである。
船宿は「船岩」であった。最近、信楽(しがらき)窯もとを訪ねた帰りに寄ってみたが、釣りは昔ほど流行(はや)っていないという。新しい護岸が出来上がり、岸辺の葦もなくなっては、魚のつき場所も消えた模様である。しかし、船岩は、本来の河魚料理で相変わらず栄えていた。
船は、川の流れに対して直角に。両アンカーで固定する。船の造りが重く、流れも強いところから、錨も鎖も、鉄製のごついものを使った。両岸の杭とか建物、橋桁などで山を立て、ここと思うポイントの少し川上で錨を投げこむ。船は、錨の長さだけ下流へ押され、狙い通りのポイントの上で停まる。この操作がなかなか熟練を要した。
船には、あらかじめ、炒り糠、さなぎ粉、赤土などの撒餌を用意しておく。撒餌用の道具は、径二十センチぐらいの空罐に、いくつも小さな穴をあけたもので、底には、小石を入れておく。この中へ、撒餌を十分につめこみ、舷から静かに降し、底へ着いたら二寸ほど紐を手繰りあげ、そこで舷に固定する。
釣師は、船の中央、流れに向かって座し、舷ぎりぎりの眼の下へ仕掛けを落としてやる。鉤先のさし虫は、流されながら一旦底すれすれまで沈むが、そのあと、浮き上がりながら仕掛け一杯の下流まで流されていく。小さな唐辛子浮子は、竿先に吊られ水勢に押されて、斜めに水没の形となる。そこで竿をあげ、また、舷ぎりぎりから始める。当たりが遠のくと、紐を二、三度揺り上げて、撒餌を散らす。竿は合わせるときだけで、振り込むということはない。魚の取り込みは、竿をおいて、手で糸を手繰る。一種、海の沖釣りのようであった。
竿は、普通、長いはす竿を使っていた。長ければ長いほど、遙か下流まで餌を送ることが出来るからだが、私は、せいぜい七、八尺のへら竿を使った。手返しの早い方が有利と判断したからである。浮子も、へらぶな用の孔雀の羽でごく小さいものを作った。
はじめは、一日やって、僅か十数尾という貧果であった。
「ここの釣りは、むずかしうおますよってなあ」
と、美術部の大将が気の毒そうにいう。彼は、魚籠(びく)の代わりに広口の魔法瓶を持っていて、獲物が口もとまで一杯になると、
「はい、お先に」
さっさと引き揚げてしまうのである。無理に沢山釣る気はないらしく、
「まあ、二、三時間の愉しみでんなあ、この釣りは」
という。彼は、昼飯前の十時か十一時に竿を納めるのが常であった。それだけで、充分、魔法瓶が一杯になるのである。
要は、ポイントの取り方であった。川底には、ところどころ、流れに沿って落ち窪んだ溝があり、湧き水もあり、水草などもその辺りが濃く、魚のつき場所になっている。そのちょうど真上に釣座を固定すればよいのであって、釣り自体は別にむずかしいものではなかった。何度も通ううちには、ポイントも覚え、両アンカーの使い方にも慣れ、遂に束釣りを欠かさないまでになったが、やはり、なかなかの執念を要したことである。
瀬田川のはいじゃこは、実に美しかった。魚を掌に掴んだとき、その人肌の暖かさ、脂ののった、その、なまめかしさは、まことにエロチックな優しい情感であった。
水と船と、魚と竿と、どうも私の釣りは、いずれを欠いても成り立たないらしいのである。
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