江戸前の釣り(1)

江戸前のはぜ


 私が、旧制一高へ入ったあと、私の一家は、父の転任について姫路へ移住していた。当時、一高はまだ本郷にあり、全寮制であったから、新入生は全員、寮に入った。しかし、寮の数が不足していたので、東京に自宅のあるもの、親戚などに下宿のあるものに限り、二年生以降は、許可を得て寮を出た。寮費は、常識外れに安かったが、両親にとって、仕送りの負担はあまりにも大きかった。そこで、二年になるのを待ちかねて、巣鴨の伯母のところへ厄介になることになった。

 この伯母は、日露戦争で名誉の戦死をとげた陸軍大佐の未亡人で、池之坊の生花を教えて、細々と身をたてていた。私の父の、姉である。伯母は肝臓が悪く、徹底した食事療法をやっていた。一切の肉類を排し、もっぱら、ひじきとか、鱈とか、油揚げとか、食膳はいつもきまったものばかりで、二十歳にも満たない若者には、いかにも喰い足りなかった。

 伯母は、殊のほか私を可愛がってくれた。国技館の相撲とか、歌舞伎の芝居とか、たまには、温泉などにも連れて行ってくれたが、一向に面白くなく、私はもっぱら、テニスとか、野球とか、山登りなど、主として肉体的な発散の方に向いていた。ただひとつ、釣りのお伴だけは無性に気に入った。はぜ釣りである。

 秋の彼岸の頃から、江戸前は、はぜ釣りの成季である。平生は釣りをやらない伯母だったが、生花の師匠仲間に誘われて、はぜの沖釣りに出るのが年中の行事であった。江戸前という言葉が、新鮮美味な魚の代名詞のように使われた時代のことで、船頭の揚げてくれるはぜの天麩羅は、いかにも珍味であった。なるほど、これが江戸前の風流というものかと、少しは分かるような気もしたが、釣の味はやはり格別で、以来、病みつきになった。しかし、貧乏学生には船を仕立てることも叶わず、もっぱら、東雲あたりの岸から釣った。

「はぜは、馬鹿でも釣れる」

 などと言われ、やさしい釣りの代表のように思われているが、なかなかどうして、はぜ釣りは非常にむづかしいものである。戦後になって、私にもそれがよく分かった。

 一年中、はぜばかり釣っている名人がいて、私の六倍や七倍は必ず釣った。私などは、竿に魚信を感じて合わせるのだが、もうすでに餌をとられていたり、喉もと深く鉤を呑みこまれていたりで、はかが行かない。名人の真似をして竿を二本出してみても、結局どっちつかずで、むしろ一本に専念した方が効率がよかった。私は釣りをやめ、唖然として、名人の釣りを眺めていたものである。

 魚信を感じてからではもう手遅れである。魚信に現れる前の、ふわりとした、いわゆる「のり」を察知して合わせるのである。から合わせということも教わった。いかに手早く餌をつけても、その間、一方の竿が遊んでいる。これでは、「のり」を読みとる術もない。そこで、餌をつけながら、ひょいひょいと、何度も竿先を煽って、から合わせをするのである。竿の上げおろし、魚のとりこみ、餌づけなどの動作に微塵の停滞もなく、その流麗な早業は、まことに、百発百中であった。私など、歯を喰いしばって頑張ってみても、精々二束どまりであった。その頃の年間レコードに挑戦するには、少なくとも千を越さなければ覚束なかった。

 近頃は、釣りもスポーツということで、数釣り競争がはげしく、そのためには、ひとの迷惑お構いなしのがめつさが多いが、その頃の名人の品格は、ゆとりがあって美しかった。肩と肩を接する乗合船の中で、名人はいかにも自由闊達、それでいて、いささかも周囲に迷惑をかけなかった。姿勢を崩さず、笑顔を絶やさないのである。仲間の面倒見もよかった。一般に、釣師の行儀もこせついていなかった。船宿を出るのが八時、戻りが五時。釣場での正味は、約九時から四時までが相場で、しかも、その間に、たっぷり一時間の休憩がある。船を一ヵ所に泊め、ゆっくり食事を楽しむのも、釣りのうちであった。

 秋も深まるにつれ、はぜは、次第に沖の深んどに落ちて行く。それを、「ケタはぜ」と呼んだ。師走のうちに釣ったはぜを、陰干しにしておき、正月の雑煮のダシに使うと無病息災ということで、私も、暮れになると、ケタはぜを釣りに出ることにしていた。

 ケタはぜは、なかなか手剛い釣りであった。型は大きいが、ちょっと日並が悪いと、十いくつという貧果も珍しくなかった。

 はぜの干物作りは、ちょっとしたコツが要った。折角の正月の縁起ものに虫が湧いてしまうのである。さんざん苦労してみても、正月の雑煮必ずしも美味いとは思わなかった。思うに、人間の生活が、季節の推移に密着していた頃の名残の行事で、そこに、風流を感じていたのであろう。