名竿「孤舟」の秘密(3)
名竿「孤舟」の秘密(3)
旭匠さんの竿作りは、へらぶな釣りと全く表裏一体の、求道的な創造活動として始まったという点はもっとも重要である。
そういえば、琵琶のときもそうであった。新米の琵琶師が、どの程度にやれたかは、まことに疑わしいのだが、琵琶の本質についての嗅覚だけは群を抜いていたらしい。市販の楽器は、十分にイメージを満たしてはくれなかった。そこで、琵琶の制作がはじまる。もともと、手なぐさみが好きで、器用であったから、とだけでは説明のつかない、何かしら、内面的な、創造的な衝動に突き上げられたからにちがいない。
琵琶をいくつも解体して、制作の基本線をつかむや否や、早速、材料を入れ、工具を揃え、次から次へと作った。その中の二、三は、いまも羽田家に残っているが、素人の手造りなどとは夢にも思えない、精巧なものである。材料の入手には特に苦労したらしく、四国からの船が、大阪の港へ陸揚げするのを待ちうけ、問屋の先回りしてまで買いつけた。工具をつくり、設計にも独自の工夫をこらして倦むところを知らなかった。旭匠さんの追求心は、おそるべき執念であった。いかにそれが、その中に定着し、それでよしとされているものでも、ただそれだけでは納得する理由にはならない。どこまでも欲が深いのである。へら釣りに深く沈潜すればするほど、当時のげら竿は、きわめて不備不完全に思われた。へら竿こそは、へら釣りと人間を結ぶ、もっとも重大な接点ではないのか。自らの問いに答えるには、結局、自らが竿を作るより他になかった。釣りを愛する者の責任として、竿の秘密の解明を迫られたのだ。へら竿の神秘さが、竿を作る前から、旭匠さんを虜にしていたことになる。だからこそ、以後の半生は竿作りに賭けられたのであり、それだけ深く、釣りを愛したことの証拠ともなるのである。
すでに名の売れた竿師もいた。特に、紀州には多くの、へら専門の竿師がいた。しかし、旭匠さんにとって、なんとも我慢がならなかったのは、竿師のほとんどが釣りを知らず、釣りを愛さない点にあった。釣りが、遊びを超えて、人生探求の道となっていた旭匠さんから見れば、いかに腕っこきの竿師といえども、単なる職人に過ぎず、竿作りという創造に先立つべき、作家魂の燃焼が感じられなかったのは、もっともなことである。しかも、竿師の多くが、深く釣りを愛さないとあれば、釣りというものにヴィジョンの打ち立てようもなく、従って、竿に対する理想像を画くことも不可能なはずだ。その点が、なんともトサカにきていたのである。釣りの解明のためにも、旭匠さんは、竿を作らなければならなかった。釣師としての自らに課した責任感である。孤舟という竿の源には、厳然として、作家精神があった。この点を知る人は非常に少ないと思う。あえて自らを作家と呼ばなければならなかった経緯が、私には、手にとるように分る気がする。昔、ものを創造するのは、神のみに許される仕事といわれた。従って、芸術的な創造活動は、すべて、神を僭する所業であり、そのためには、魂を悪魔に売り渡さなければならなかった。決して人並みの生き方は望めないとされていた。旭匠さんの孤独は、芸術家的な魂に共通の運命であった。孤舟の銘が生まれた所以(ゆえん)もここにあり、決して、単なる思いつきではなかったと思う。
自らを作家と呼んでいたのには、もうひとつ、別の世俗的な狙いもあった。それは、竿師全般に与えられていた、社会的地位の低さである。それには、いろんな理由が考えられるが、旭匠さんの、もっともトサカにきていた点は、何よりも、竿師自身の卑屈さ、意識の低さである。
あるとき、私たち有志のものの集まりに、旭匠さんと源竿師さんが同席したことがある。席上、釣師のあるものが注文をつけた。詳しい内容は忘れたが、常識的には、きわめて無理な注文であった。たとえば、もとの太さ、三分五厘ぐらいまでの細身作りで二間半、しかも筋金入りの芯を通してくれといった風な、ない物ねだりである。大体、関西は箱、関東は野釣りと相場が決まっているが、肝心の竿師は関西に住むものが多く、関東の釣りを知らない。従って、野釣り用の良竿を作ってもらうには、まず、野釣を教えてやる必要がある。そんな雰囲気もうかがえる集まりであった。
源竿師さんが、穏やかな笑顔で答えた。
「分りました。山へこもって、そのような竹を探し、大いにやってみましょう」
旭匠さんが、かみつくように答えた。
「そんな馬鹿な注文、どだい無理ですわ」
座は急に白けてしまった。
あとで、私たち仲間うちの批評に曰く、
「あの、へり下った源竿師の立派さに比べて、旭匠の、あのギスギスした態度は、まるで山犬じゃねえか」
源竿師さんは、人も知る謙虚なひとで、かねてから、関東の釣師が何を望んでいるかを知りたがっていたから、ありのままの誠意を見せて答えたまでのことで、お得意さんを前にして、諂(へつら)ったわけではない。もともと、卑屈な人間でもない。立派な人である。しかし、旭匠さんにしてみれば、仮にも作家ではないか。まして紀州の御大、源竿師ほどの腕っこきが、明らかに、できない相談をつきつけられて、何故、黙って頭を下げるのか。教えてやろう式の旦那面に対する反発と同時に、営業上、長年身につけた竿師の卑屈さに腹が立ったのである。そのことが竿師の地位を低くし、営業上も自らに量産を強い、生活改善の手立てもない。自らの首をしめているのは、むしろ、竿師自身の見識ではないか。旭匠さんは、ひとり、源竿師さんに当てつけたわけではなかった。
この挿話でお分りのように、旭匠さんは、いつも、竿師全体の地位を高め、低賃金多作の泥沼から這い上るためにも、自ら率先して、作家を呼称したのである。
竿の値段にしても、孤舟は高すぎる、とよくいわれた。旭匠さんは、いつも、意識的に豪語していた。
「作家料と思えば安いものでっせ。陶芸家とか、工芸家とか、ちょっと名の売れた人を見なはれ、わしの十倍も作家料、とってはる」
近頃では、料理にまで芸術の名が持ち込まれ、名の通った高級料理には、明らかに、作家料が含まれている。なぜ、ひとり竿師のみ、職人であって、竿芸術とはなり得ないのか。この怒りは、自らについてよりも、竿師全般の問題として、かつての、組合の委員長的視野から発していた。あれほど孤立し、あれほど、ひとり行くの気概を示していた旭匠さんが、あれほど広く竿師全体のことを考えていたとは、意外に思う人が多いと思う。その点でも、旭匠さんは、指導的な開拓者であった。現に、へら竿は、孤舟の高値につられて急上昇した。私たち買手からいえば、あまり有難くないのだが、最高のへら竿には、彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の苦心がいるだけではない、長い時間がかかる。どこまでも良心的に追求しようとすると、金銭的には、いかにも間尺に合わない仕事ということになると、諸物価との釣合いからいっても、また、特に作家料に敬意を払う建前からいえば、決して高いとはいえまい。卓抜したへら竿は、立派な工芸品なのである。多作廉売からは、決して、工芸品は生まれ得ないのである。
旭匠さんの竿作りは、はじめは、売るためのものではなかった。作ってはつぶし、壊しては打ち立ての明け暮れの中から、不満ながらも、竿が出来上がって行った。これはと思うものは、早速、実際に釣場でテストされ、さらに改善を加えたのは当然の成行だが、へら竿に対する理想のイメージは、抽象的、感覚的には、かなりの高さと密度で、初手から十分に熟していた点がユニークなのである。
程へて、ある危機が訪れ、他に売るものとてもないどん底生活の中で、手作りのへら竿だけが金にかえられた。その頃から、本格的な、竿の作家生活がはじまることになるのだが、とき、すでに四十歳。
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