名竿「孤舟」の秘密(4)
名竿「孤舟」の秘密(4)
旭匠さんは丹波の生まれ、生涯の大半を大阪で過ごしたが、そのくせ、上方の、商人的雰囲気を嫌っていた。旦那衆の御機嫌をとり結ぶことで商売の繁昌を願い、転んでもただでは起きない、がめついまでの損得感覚には、終生なじめなかった。
「ゼイロクは相手にせん」
人間の住むところは、いずこも同じと知りつつも、長らく関西に閉じこもっていた旭匠さんは、知已を関東に見出そうとしたのである。孤舟の名は、急速に、関東にひろまって行った。
その頃である。特に、専門の竿師仲間では、悪評が絶えなかった。
「竿は汚ねえ、漆もなっとらん。かりにも商品やないか。ゼニの取れる代物やあらへん」
公平に見て、徒弟として年期の入っていない旭匠さんの初期の竿は、見た目には、そう言われても仕方のない、ぶざまさもあった。それに反して、紀州竿などは、美術品ともいえるほど美しく、磨き上げられていた。そのことは、旭匠さん自身、誰よりも承知していたことと思う。しかし、旭匠さんは昂然と胸を張り、一歩もたじろがなかった。いかに見てくれの美しさにかがやいていても、へら竿の根本理念を欠如してなんのへら竿や、という気概が、旭匠さんにはあったからである。
個々の技術には、いささか欠けるところはあっても、孤舟という竿は、その調子のきびしさ、バランスの良さでは、初めから、群を抜いていた。そこが、関東で一躍名をあげた理由でもある。
技術の修業は、一生ものである。特に、火入れ、生地合わせなどの、竿作りの中でも特に決定的に重大なポイントは、よほどの修練を要求するもので、一生かかっても未だ足りないといわれるほど、困難な作業である。しかし、その技術を推進し、開拓するには、技術をリードする強烈な精神を必要とする。その仕事に適不適の才能の問題もあるが、反復、練習するだけでは、技術を飛躍させるまでには至らない。絵画にも俳優の演技にも、会社の業務にも、それぞれ専門の技術がある。練磨なしに技術の向上は望めないが、そもそも、何を目指しての練磨であるか、本当にその技術が生命を持つかどうかは、やはり、精神の閃きによる。これこそが、作家精神と呼ぶべきものなのだ。
へらぶな釣りの入門書をよむと、竿のくだりに、必ず、先調子、七三調子、胴調子などの記述がある。
「ややこしいことはいらん、へら竿は、全体調子や」
旭匠さんは、一言にして喝破していた。つまり、調子には、いろんな変化があり得るが、その、ひとつひとつについての微妙な違いを知ることよりも、ひっくるめて、一言にして、全体調子だと言い切るところに、一番大切な理解の鍵があるということだ。
旭匠さんは、竿作りを始める前から、すでに、この理念を打ちたてていた。
竿師の多くは、十代の徒弟からはじまっている。ピアノにしても、四、五歳の頃からはじめないかぎり、終生、立ちおくれを取り戻せないといわれている。それほど、技術の世界は深遠である。中年からこの道に入った旭匠さんは、十分に自らの立ちおくれを知っていた筈だ。しかし、旭匠さんは、あえて、竿作りに挑んだ。それは、旭匠さんの、へら竿に対する強烈なイメージである。いかに技術が高くとも、従来のへら竿は、旭匠さんの夢想する全体調子からは、いかにも遠かった。全体調子を具現化することのみが、旭匠さんの願いであった。この点は、最も大切である。
全体調子とは、いったいどういうものを指すのか。私は前に、へら竿についての小論を書いたことがある。全体調子を一応、バランスという言葉で説明したが、念のために抄録させていただく。
「竿のバランスは、あくまでも動の姿で捉えなくてはならない」
「竿の動く姿は、振り込みと取り込みの二つに大別してよいと思う。一つは遠心的な、一つは求心的な、いわば、相反する二つの性能が要求される。そのいずれにも十分応え得て、しかも、それぞれに美しい調和を保ち得てこそ、理想的なバランスといえるのである」
「振り込みによって起された力は、手許から穂先へ向かって遠心的に、滑らかに移動して行き、その瞬間のバランスを崩すことなく、そのまま道糸を伝わって、鉤先まで逃げて行く」
「取り込みについていえば、鉤先に加わった力は、その大小に応じて、竿を撓げ、伸ばし、次第に求心的に、滑らかに、重心を手許のほうに移行させつつ、取り込みを容易にしてくれる筈だ」
「振り込みのときは、鉤先までが竿であり、取り込みのときは、手許までが糸である」
要するに、求心的な力の移動も、滑らかに、決して、一ヵ所に停滞することなく行われなければならない。そのように、予め設計されなければならぬということで、生地合わせが、最も重大なポイントであるという意味はここにある。勿論、この調子を出すためには、竹材の選別、火入れなど、他の重大ポイントが、十分にいかされなければならないのだが、いずれにしても、恰も禅問答にでも出て来そうな、右でもない左でもないといったような、微妙なバランスを、自然材である竹を使って具現させることは、まことに困難である。
旭匠さんの、苦心と精進のすべては、初手から、ただ一点、この、全体調子の具体化を目指していた。どのような竹を、そのように組み合わせ、どのように処理すればよいのか。技術面のあらゆることが、この目標のためにのみ追求されることになる。竿作りの工具なども、すべて、その観点から、改良され、新しく考案された。
まず、例を、竹材にとろう。
全体調子の要請に答えるには、竹は、曲がり強度と、反撥的な復元力と、この相反する二つの要素を、最高に、兼ね備えていなければならない。この発想が、材料を古竹に限定させた。若竹のへら竿にも、それなりの味わいはあるのだが、バランスの妙を、極限にまで推進しようとするには、どうしても、古竹以外にはなかった。
古竹というのは、少くとも七年以上たってから伐らえたものを指す。七年以上何年くらいまでが適当かどうかは、私もはっきりは知らない。多分、十年くらいまでが限度だと思うが、五年ものは、旭匠さんから見れば、やはり、若竹ということになる。
在来の竿師は、普通、二、三年ものを最高と考えていたようだ。二、三年ものは、性質が温順素直で、火入れによって容易に矯正が出来る。第一、美麗でもある。そこへ行くと、古竹は、長い間、風雪に耐えぬいた強靭さがある代わり、とにかく、ひねくれ曲って、他からの矯正をうけつけない頑固さがある。第一、醜い。人間にあてはめれば、青年と壮年のちがいともいえよう。指導によっては、どのようにも扱いやすい青年をすて、あえて、海千山千の壮年に挑んだ旭匠さんの念頭には、辛苦に十分堪え得る耐久力(曲り強度)と、押さえても押さえても撥ね返してくる馬力(復元力)が見えていたからだ。
古竹を専門に扱っていた竿師は、殆どなかった。若竹を処理する技術、考え方は、古竹には通用しなかった。古竹には、古竹独特の料理法がある筈である。ここでも、旭匠さんの直感的な洞察力がものを言う。
いったい、火入れとは、なんのための作業なのか。表面的には、曲りを矯(た)めて真っ直ぐにすることである。一旦矯めたものは、水に濡れ、日に照らされ、釣り場で縦横に駆使したあとも、狂わないのが理想である。従って、火入れの良否は、へら竿の生命に直接ひびく、重大なポイントであるが、いかにせん、竹という自然物には個々の差がひどく、限界もあり、いかに腕の利いた火入れも、完全というまでには及ばない。しかし、それを克服するには、火入れ技術の修練だけがすべてであろうか。他にも、補助的な方法がありはしないか。
竹は、水と油を含んでいる。
「竹は、生きものでっせ」
これは、旭匠さんの口ぐせのひとつだが、本来、根から切り離された竹は、もはや、死物にちがいない。まして、竿になった竹は、単なる物体にすぎない。それを生物と感じたのは、ただの物体のつもりで処理しようとかかると、どっこい、俺らは生きているとばかりに、竹の反応が、手に、胸にじかに伝わってきたからにちがいない。そこには、しぶとい生命力が息づいていた。そのエネルギーのもとを、師は、水と油に見た。
地に生えているとき、竹は存分に、水と油を貯えて生きている。しかし、その故にこそ、非常に移ろいやすい性質をもっている。風に吹かれ、陽に照らされ、自然のいろんな圧迫によって、どのようにも、曲がったり、縮んだり、膨れたり、ときには瘤(こぶ)をつけたり、変貌しやすいのである。伐採されたあとは、すでに貯えられていた水と油によって、なおも生きつづけるといえるのだが、要するに、過分の水と油は、竹の性質を移ろいやすいものにしている。このことは、暖地の竹、あるいは、畑で栽培された竹は、いかにも豊かに育っているが、栄養過多のため、あまりにも変化しやすく、竿の材料としては、使いものにならないのを見てもよく分る。しかし、水と油が涸れ切ったときは、もはや竹は動かない。文字通りの死物と化して、朽ち果てるのである。
従って、旭匠さんにとっての火入れの意味は、過分の水と油を、適切に限定し、竹を生かしたまま、移ろいやすい性質を、安定させることであった。
そこで、火入れ以前の、原材の管理という作業が重大な意味をもってくる。抑制と乾燥の仕事である。旭匠さんは、例によってずばりと、一般的な基準について喝破する。
「七年ものは七年間、六年ものは六年間、三年ものは三年間、ひっそりと、物陰で、静かに乾燥させるべし」
外界の激しい影響を避け、七年かかって吸収され貯えられた水と油を、やはり七年という自然の歳月をかけて、乾燥させ、安定させる。つまり、火入れにかかる前の、保管の作業が、実はすでに、火入れ的な矯正の意味をもっているということで、かつて、あばれていた部分を、自然な方法で、竹自身の自力で収束させるのである。この点を無視しては、いかに修練の火入れ技術といえども、古竹は扱い切れない。これは、やはり、旭匠さんの絶大な見識である。
竹は、御存知の通り、縦に無数の繊維が走っている。外界からの影響をゼロと仮定してみると、繊維の長さは、A点からB点まで等長であるにちがいない。その同じ長さの繊維が右に左に、いろんな影響をうけた結果が、竹の歪みとなって現われているが、繊維の長さが不等長になったからではない。したがって、竹の曲がりを矯めて、まっすぐにするということは、曲った繊維を伸ばしてやることに他ならない。繊維が伸びれば、もともと等長であるから、竹は自然にまっすぐに戻る。火入れのことを安定作業と呼んだ旭匠さんの心はここにある。
従って、旭匠さんの火入れは、ひと口にいうと簡単で、あっさりと終る。まず軽く火に焙って、浮き上った油を拭きとる。ここで、一旦、中止し、長い日数をかけて保管しておく。いよいよ、火入れの、矯正のためのヤキ入れは、すでにその前に、竹の安定がかなり進んでいるのだから、見た眼には、比較的早く、軽く、ただ、曲った繊維を押しのばしてやる気持で、もとの方から先へ、押して行く。ひたすら、生きている竹の自力に附きしたがって、竹本来の、まっすぐな、自然の状態へ戻る手助けを、人間が介添えしてやるということである。人間の技術で、相手をねじ伏せるという感じは毛頭ない。勿論、火入れのときの、旭匠さんの内面的な気魄(きはく)は、凄まじいばかりである。かりにも、生きものを相手の格闘であるからだ。
「ほんまに、しぶとい奴ですせ、竹ちゅうもんは」
竹をあくまでも生きものと見て、ぞっこん竹に惚れこんでいた、旭匠さんのこれは、美しい、おのろけである。
古竹は頑固で、火入れに骨が折れることは、竿春さんからも聞いたことがある。その、しぶとい古竹を矯(た)めるのに、旭匠さんは、杉の矯め木を用いていた。細材のためには、桐を使った。矯め木に刻む溝の角度も、極めて甘かった。普通、二、三年ものを材料とする竿師でも、矯め木は、樫や檜などの堅材が多く、溝の角度も鋭い。このことから見ても、旭匠さんの扱う古竹は、火入れ以前の管理作業で、すでに、若竹以上に、処理しやすいところまで、自然の安定作業が捗(はかど)っていたことが、よく分る。