水郷讃歌
釣りにひかれて知った水郷の風物なのだが、いまではどちらがさきといってみてもはじまらない。水郷の、あのなつかしさが、もうそのまま私の釣りなのだ。都会の生活の、ふとした折りふしに、ふっと水郷の風景が目に浮かんでくる。釣りに行きたい思いが、胸の中で灼けている。仕事にすきが出来ると、深夜もいとわず、すぐに車をとばして出かけて行く。通いなれた道が、刻々に私を水郷へ近づけるにつれて、ほっとした心のやすらぎが沸いてくる。そして間もなく水なのだ。白く光る水が、夜の中に静まりかえっている。その水が好きなのだ。
私は、仕事でよく旅行をする。その道すがら車窓をいろんな水の風景がよぎるとき、わたしはすぐ身をのり出して釣りを思う。河のときもあるし、海のこともある。そんな私を連れのものは笑うのだが、釣りが好きなのか、水が好きなのか、いまとなってはこれも私には分からない。
水郷は、ひたひたと水にひたされている。水郷へ着いた私も、ひたひたと水にひたされているようだ。そして、夜の、白々明けである。私は愛舟に棹さして水の上に出る。とろりとろりと舟が進む。細流(ほそ)を抜け、細流を渡り、洗場(だし)をよぎって農家のかみさんにおはようをいい、村中を抜けるともう一面の葦間だ。
前夜仕掛けた竹のどうを揚げにきた老人の農舟(さっぱ)と行きちがう。
「どうです、入ってますか」
「うんにゃ」
ぶっきらぼうに小舟が行きすぎる。
「冷え込みがきついだよ、急に」
老人のびっくりするような大声が、水面をわたってくる。
やがて江湖の広みへ出る。水から白いもやがわき上がり、一面にけむっている。舟の河岸(かし)づけを終わり、釣りの道具を出す頃には、朝の光茫がさっと雲間に漏れはじめる。ああ、来てよかったと、つくづく息づく安らぎのひとときである。
水郷の風景はどれもよい。どこをとっても絵になる。水は絵になるものだ。雲があるから、真菰があるから。
しかし、絵はがきを私は好まない。水郷のよさは、水と密着してそこに人間の生活があるからだと私は思う。細流と江湖にかこまれて見渡すかぎりの田圃である。一面の刈田にいま人影はないが、稲の株という株には鋭い鎌の切れ味が残っている。細流にかけられた下駄橋は、農舟が往来できるように真中が高く、人が渡るには登って降りる形につくられ、それが風情ともなっている。
水路の辺地近く、ところどころ、細い篠竹がさしてあるのは、鰻をとるための仕掛けだ。農家の庭先のエンマに小舟のある情趣も、洗場にうずくまって、姉さんかぶりの農婦が洗いものをする風景も、人間の営みと直結した、いわば、水郷自体が生活の場だからこそ美しいのだ。あるときは水をなつかしみ、あるときは水におびえ、長いこと水と共に生きてきた人間の営みを離れては水郷を理解できまいと思う。
水郷の、活気あふれる最も美しい季節は、稲のとりいれどきだ。ここは全国でも有名な早場米だから、刈り入れは秋を待たず、夏のたぎるような炎天下に行われる。物陰ひとつない広い田圃に今はもう水がなく、地面から立ち上がる熱気は稲の香りをのせてむせぶようだ。水路をわたる風も一向にきき目はない。
毎年おびただしい季節労働者の群が、刈り入れのため水郷に入りこみ、各農家に泊まりこんで、収穫が終わるまで、地元の家族ともども、熱っぽい労働の歌声をあげる。腰の曲がった老人も、年のいかない子供も、一斉に田圃に出払ってしまう。残るのは、昼食の支度のかみさんだけだ。あちらにもこちらにも、人がかがみこんでは稲を刈り、稲を束ねては腰をのばし、またかがみ込む。菅笠と紺絣の農夫の姿が色彩的にも美しい。未婚の、また若妻の、真っ赤な帯が特に美しい。誰もしゃべらない。鎌の音だけがきびしい。
水路のいたるところに、丸太の稲架が立てられていて、豊かな稲束が振り分けにして掛けられる。乾燥のためにはもってこいの条件であるらしい。一段掛けに横へ長く組んだもの、数段掛けに斜めに高くくんだもの、どの稲架も、上に人がのっていて、下からほうり投げる稲束を鮮やかにさばいては振り分けに掛けて行き、次第にこんもりと、房々した稲の晴れ着が出来上がる。
農舟の往来もこの頃ほど頻繁なことはない。やがて、真ひるどき、かんかんと照りつける烈日のもと、茫々とした広野原が一瞬ひっそりと鳴りをしずめる。舟の中、田圃の外れ、思い思いに集まって昼食がはじまっているのだ。このときばかりは、どっと歓声が湧く。
--こんな風景を私はつくづく美しいと思う。農耕の仕事が、人間の営みの中でも原始につながる最も本質的な労働であるせいであろうか。耕し、種をまき、育て、ゆっくりと手順をふんで丹精しなければ結果が得られない農業というものの、いささかのインスタンティズムも寄せつけない厳粛さのせいであろうか。また、高度文明が謳われるかげで、離村問題を騒がれるまでになった我国の零細農業の悲劇的な性格のせいであろうか。私は、感傷なしにこの美しい風景を見ることが出来ない。
しかし私は、もっと美しい水郷の風景を知っている。冬を中心とした、冬の前後の水郷ほど美しいものはない。水郷は四季とりどりに飽かぬ美しさを呈する。春もよい、秋もよい、しかし、冬のはじめの、茶褐一色が、澄んだ大気の中でひきしまっている風景。また水がぬるみはじめる冬の終わり、ふんわりした微風の中で葦に新芽が出る頃の雲と水。特に、真冬の低くどんよりと垂れこめた空の重さ、末枯れの真菰にわたるどきりとえぐるような 冷たい風の色、見る限り一面に茫洋とかすんで水と空がひとつのとき、遠くに村落のたたずまいが、影のように沈んでいる。荒漠として、とりつき場のない寂しさ、水郷がしっかりと私をとらえて離さないのは、実はこの真冬の風景なのだ。
あくせくと、あれを思いこれを思い、営々と働きつつ年を重ねる私たちの心に、ふっと宿る寂しさのようなもの、虚しさのようなものが消しようもなく次第に大きくなって行き、生きる楽しさと生きる虚しさとが、どうやら表と裏の関係にあるひとつのものと思われてくるにつれて、その荒涼たる寂しさのようなものが、常住坐臥となる。
動作もにぶくなるほどに着ぶくれて、私は船に座っている。竿を打ちかえしては、魚信(あたり)を待っているのだが、浮子(うき)はぴくりとも動かない。やはり老人の言ったように、急に冷えこんだからであろうか。釣人の姿のほか、小船の往来も殆どない。風は急に絶えた。水は滑(なめ)っこく一筋のひだもない。風が変るのであろう。雨が近いのかも知れない。農家の炉辺では粗朶(そだ)がはねているであろうか。農閑期の副業にはよく縄を編んだものだが、この頃は何をするのであろう。
うたすてたるにあらねども
ひとりうきよをのがれきて
きょうのひとひをのべのはて
つりするわれをせむるなよ
みやこにうたをかくともよ
これは、水郷に生まれ育った、水郷の詩人でもあり釣りの先達でもある、関沢潤一郎氏の詩だ。人の中にあることの寂しさをのがれてきて、一層の寂しさに行きつく。そこが釣りのいいところかも知れない。生きる勇気のようなものが確かめられるのも、このあたりであろうか。他愛もない私のひとりよがりはともかくとして、真冬の、灰色のすがれた風景のぞっとするような美しさは、水郷の代表的なものだ。
ひなびた幽雅な、可愛らしい風景もある。水藻が波にゆれ動いて、じゃらんぼの、かすかな白い花もゆれゆれ咲いている。懐かしいひそやかな情緒はまことにつきないのだが、それとても、真冬の風景あってのことである。真冬の風景が自分のものと思えてこそ、じゃらんぼのひそやかな可愛さも身にしみる。
あやめ咲く潮来出島(いたこでじま)や十二橋(じゅうにきょう)へ、季節になると観光客がたくさんやってくる。そして一様にぼやく。金はぼられるし、泥っぽいし、一度でこりたという話をきく。その人たちを、冬の寒空のもと、与田浦や外浪逆(そとなさか)の広がりへ連れ出して上げたら、もっとこりるだろうと、私はよくおかしくなることがある。カッコイイことのお好きな近代人に水郷は無縁なのだ。
十二橋ももちろんいいが、もっと素晴らしい美しさは、水郷のいたるところにころがっていると言っていい。観光の宣伝文句が、いつまでもあやめと十二橋ではお粗末すぎる。水郷は生活の場だ。農業が近代化されるにつれて、水郷の景観がどんどん変ってゆくのは当然である。板の下駄橋が鉄の欄杆をもったコンクリートに変るぐらいではない。水郷を二毛作地帯にする狙いも含めて、大がかりな干拓作業が着々と進んでいる。
耕作面積がふえるだけでなく、細流は埋められて道路となり、農舟の代わりに軽トラックが疾走するだろう。舟をやるにも船外機が実用化されている。水郷名物の洗場(だし)も、水揚機場が出来て水道化された現在では、米をとぐ場所ではなくなった。古い、地方色豊かな、ひなびた習慣などもどんどんすたれて、都会人から見た物珍しさは今後もいよいよ失われるだろう。
それはちょうど、グルとか、ゴゼとか、相馬浦とか、戸指(とざし)とか、いろんな釣りの名場所が干拓によって失われたのを哀惜する私たち釣師の気持にも似ているが、だからといって、水郷に生活がある限り、水郷はあるのである。農村近代化の干拓工事の方針も、地元の熱烈な陳情が効を奏し、国定公園としての美観を損ねないよう、むしろ、その特徴を生かすような建前で進められているそうである。数々の思い出多い釣場の代わりに、新しい別の名釣場も誕生することであろう。水郷はいぜんとして魅力を発揮しつづけるにちがいない。
水郷の釣りの代表的なものはへら鮒釣りだ。私のように、魚がいれば釣れるし、いなければ釣れないときめてかかっていた、行きあたりばったりの釣師は、海釣り、河釣り、何でも屋であった。たまたま目の前にチャンスがくると、どの魚でも釣った。
戦後ふと専門の本などをよみ、竿の選り好みをするようになり、いささか組織的に釣りをするようになってから、急速にへら鮒釣り一辺倒になった。江戸前のハゼ竿、ボラ竿、黒鯛竿、海の磯竿、小物竿、沖釣りの手ばね、淡水では、やまめ、はや、やまべ、鮎などの竿、真鮒の並べ竿、タナゴ竿等、それぞれ目的の魚に合わせた専門の竿たちが、いまはむなしく私の部屋の壁にかかっている。へら鮒釣りの妙味もさることながら、これはまさしく水郷の風物が深く深く私を浸潤した結果なのだ。
一言ふれておくと、鮒には、へら鮒と真鮒とあり、それぞれ釣り方がちがう。竿も仕掛けも餌も釣りの狙い場も、何から何までちがう。水郷では真鮒釣りもさかんであり、船から竿を数本出した並べ釣り、辺地(へち)を歩きながら探り歩くズキ釣り、しもり釣りを好む人も多い。
しかし、何といっても全盛はへら鮒釣りだ。もちろん、鯉もやまべもタナゴも釣れる。雷魚など土地の子供が、青蛙を紐のさきで踊らせながら釣っている。利根川では尺バヤも釣れるし、河床が年々浅くなるせいか、それだけ潮が上流までさして、水郷大橋附近では、ハゼや黒鯛が釣れることもあり、セイゴ釣りは昔から行われていた。外浪逆(そとなかさ)では、有名な帆立舟の流し釣りでボラが釣れる。もっとも、これは地元の人しかやらないらしい。霞ヶ浦での帆曳きによるワカサギ漁はあまりにも有名だが、釣りの対象としては聞いたことがない。
へら鮒は非常に神経質な魚らしい。外界のちょっとした変化にも敏感に大きく対応すると見えて、釣師たちは各人各説、いろいろに知恵をしぼって釣法を研究したあげく、ある線の結論は出たかに見えているが、まだまだかもしれない。仕掛けにも、餌にも、浮子にも、いまだに改良が加えられている繊細な釣りである。職漁ではないから、繊細な釣り味をたのしむことに大方の目標は傾く。釣歴の古い人ほどそうである。浮子に現れる千変万化の微妙な魚信(あたり)を眺めているのがたのしいのである。
へら鮒釣りをやったことのない人には、伝説的にむずかしさが伝えられているが、ただ釣るだけなら、別にそうむずかしいものでもない。初心でも釣れるときは結構釣れるのである。水郷では一尺三寸七分、相模湖では一尺五寸六分のへら鮒が私のレコードである。水産試験場が稚魚放流のときにつけた背鰭の目印で、満十二歳ということが分かった。
へら鮒は岡釣りもいいが、船釣りは特に味わいが深い。自分船頭で舟をやる楽しさが加わるからだ。棹は十年というが、夢中で釣っているうちに、どうやら上達するものだ。いまは船外機の普及で、棹の苦労も少なくなり、新しい釣り場開拓のために、広い水郷の遠くまで突走れるようになったのはありがたいが、釣りの情緒は半減した。
それにしても、釣りは栄えたものだ。ひと口に、いま釣り人口一千万といわれるが、盛期には、水郷一帯だけで軽く二千人にもなるのではないか。釣りバスの台数から推しての話だ。釣りを機縁に、水郷を愛する人がふえるのは何よりのことだが、例会が競技会形式をとっているせいか、とかく釣果にこだわり、有利な釣りのポイントを占めるための先陣争いが、深夜のうちから火花を散らすようでは情けない。本来、釣りはひっそりとたのしむべきものであり、例会は同好の士の集まる祭典と心得て、それぞれが風格ある釣りで交歓しあいたいものである。
利根川の河口に潮止めの堰堤が出来上がった。水位も上がり、流速も微弱になるとすれば、今まで乱杭場だけに限られていた利根本流のへら鮒釣りも大きく飛躍するにちがいない。水郷は生活の場だ。そのことを、この際釣師も観光客も、それぞれ自分の生活にひきくらべてもう一度想起したい。
それにしても、日本水郷などとは一体誰が名付けたものか。もう少し、野趣ある、幽雅な名称こそふさわしいように思う。エンマ、オッポリ、ブンヌケ、オンドマリなど、水路の状態につけられた名前、じゃらんぼなどという惚れぼれするような花の名前、小鳥の、のじこ、むぐっちょ、地名の、泪(なみだ)川、野田奈、ゴゼ沼、グル川など、実にひびきのよい、ひきこまれるような名称が多いというのに。