琵琶湖の釣り(2)

落人の池

 琵琶湖はもろこ釣りの本場である。関西ではどうしてこんな小さな魚に目の色を変えるのか。味の良いこともあるが、あくまで漁獲本位でない、繊細な釣趣が、京風に合うのかもしれない。むくつけき関東には、この釣りがない。もっとも、たなご釣りは、関東にあって、関西にはない。たなご釣りも繊細ではあるが、雅(みやび)やかな京風とはいえない。釣りの季節の相違かもしれない。もろこは、春から夏へかけて、たなごは、風も凍る真冬の釣りである。不幸にして私は、その季節にチャンスがなく、もろこ釣りの記憶は少ない。
 京都の五条通に、「北川」という釣具店がある。ざっくばらんな、おかみの人柄が、今でも人気を集めているが、あるとき、訊いてみた。 「はいじゃこや、釣堀もいいが、関西には、へらの野釣りってのは、ないのかね」
「ありまっせ、高槻あたりにも小池がぎょうさんあるけど、琵琶湖の穴村あたりは、よう釣れまっせ」
 私は、我ながら迂闊だと思った。へらぶな釣りは、そもそも関西が発祥地である。いかに釣堀が全盛でも、野釣りの出来ない筈はなかった。以後、京都へ行くたびに、野池をもとめて歩き廻ることになるのだが、私は、早速、穴村へ行ってみた。
 東海道を大津の先で左へ折れるバス道があり、たしか、北大萱というバス停から、真直ぐに湖岸の方へ出ると、なるほど、琵琶湖の外側に、水路や池が沢山ある。船を借りうけ漕いで行くと、葦間水がひらけ、いよいよ美しい水郷である。やがて、閑寂な拡がりへ出た。見ると、一面に簀(す)が立っていて、それが、さまざまな形に池を仕切っている。しかし、養魚場ではない。簀立ては、八方に水路を開いて、船の出入りも自由である。簀が格好な波除けになり、水はとろりと静まり返り、人影ひとつ見えない。ときは、風薫る初夏の真昼どき、あたかも桃源郷に迷い込んだような有難さであった。
 浮子は、実によく動いた。持ち上げて、そのまま、ふらふらと横へ走るのは、喰い上げである。早速合わせると、大きなわたかであった。骨ばかりで、身のうすい魚である。鯉も釣れた。もろこ、おいかわ、真鮒と、芋の練餌でよく釣れるのである。ただ、へらぶなだけはどうしてもかからない。外道(げどう)ばかりでいささかうんざりしていると、突如、うしろに声があった。
「ここは、釣ったらあかんのどすわ」
振り返ってみると、小舟に若い男が立っている。
「ここは、真珠の養殖場やさかいなぁ」
 私は、きょとんとして頭を下げた。
「あの、人からここを教わってきたんですが、穴村というところじゃないんですか。ここは?」
「ちゃいまっせ。穴村は、もうひとつ向こうや」
 と、指をさす。養殖場の使用人であろうか、別に腹を立てている風もない長閑(のどか)さであったが、ふと叫ぶように大声を上げた。

美しい琵琶湖の落日です。琵琶湖には海のように波があり、場所によっては対岸が見えないほどの広さのところもあります。真珠の養殖は現在でも行われています


「山村さんやおまへんか、あんたはん?」

 私は若い男に見覚えはなかった。

「知らはらしませんか、下加茂の撮影所に、酒井いうて助監督がおりまっしゃろ。溝口組で山村はんと一緒やった言うて、よう噂しとりました。私、酒井の弟だす」

「えっ! 酒井さんの弟さん、あんたが!」

 そういえば、痩せすぎの風貌が兄さんとそっくりで、まったく思いもかけないめぐり合わせであった。

「かましめへん、何ぼでも釣っとくれやす」

 へらぶなにはあぶれたが、懐かしさで一杯であった。若者の兄さんの酒井という人は、長年溝口監督のチーフを勤め、映画界新参の私を、何くれとなく面倒を見てくれた人である。神経質で真面目で、いかにも芸術家らしい彼の孤高な姿勢には、私は深く傾倒愛着していた。しかし、それを表すのも殊更めいて、ついぞ、親しいつき合いまでは至らなかったが、仕事が終わったあとも、決して念頭を去らなかった。兄さんに見せることのなかった親愛の情が、初対面の弟さんに対して、いきなり素直に溢れ出るのが不思議であった。

 その後は、まず彼の家を訪れ、そこから船で養殖場へ繰りこむことにした。彼とも竿を並べて釣った。何としても、へらぶなの顔を見たい一心であったが、何度通っても、外道ばかりであった。

 彼の住む小さな居住には、若い奥さんの姿があった。控え目な奥さんで、殆ど口数も少なく、すぐにも逃げるようにして姿をかくした。その、おどおどした初々しさが、ひどく私をあわてさせたのである。何かわけがあって、わざわざ田舎の片隅に、ひっそりと、人目を忍んで隠れ住んでいるのではなかろうか。私などが、都会の風とちもに闖入して行くのは、あまりにも馴々しく、無法千万に思われた。

「おねがいです、そっとしておいてください」

 初々しい若奥さんの姿が、そう訴えているようにも見えた。もちろん、私の思い過ごしであったにちがいない。多分、この世のものとも思えないほど平和な、静穏な、鄙びた水辺のたたずまいが、ふと私に与えた幻想だったのかも知れない。私は、心ひそかに、落人の池と呼んでいた。正式には、平湖と呼ばれている。

 それ切りである。兄さんの酒井さんは、間もなく監督に昇進し、良心的な、肌理(きめ)の細かい作品をいくつも作った。何度も顔の合うことがあったが、別に深い話をする暇もなく、やがて映画がすたれ、テレビ時代になってからは、詳しい消息をきかなくなってしまった。あまりにも真面目な芸術家肌には、早く安くの当世風は向いていないのかも知れない。まことに惜しいことである。

 弟さんの方は、その後間もなく、真珠養殖の技師として、スマトラへ渡ったと、つい最近、ひとから聞いたが、これも詳しいことは分からない。