思い出の釣り(2)
春の墓場沼
安食(あじき)の水郷に、墓場沼というのがあった。ここは素晴しい環境で、駅からも近く、安食周辺でも名代の釣場である。大型のへらぶながよく釣れた。それもその筈、ここは禁漁であった。土堤の下の浅場に、はっきりと、一切の漁獲を禁ずる旨の立札が立っていた。もともと、この辺りの沼は殆どが個人の所有で、一年に一回、かいぼりをしたり、網を引いたりして、魚を一網打尽にした。魚を売るのである。しかし、墓場沼では殆どそれをしなかった。魚が濃く、大型が釣れるわけである。
この池へは、夜道をかけてよく行ったものである。真暗の中で、懐中電灯をたよりに釣座をつくり、竿をつなぎ、十分に用意を整えたあとは、裏の雑木林に分け入って、白々明けの寝起きの小鳥を狙った。鉄砲の轟音は、朝の静寂を小気味よくつんざいた。五、六発撃つ頃には、もうそろそろ、浮子が見えはじめてくる。
勇躍釣座に戻ると、もうたちまち、中型のへらぶなが、続々と釣れてくる。この調子なら、今日は、貫目はおろか、二、三貫目の釣りは確実と見えた。次第に私は、没我の境に入って行く。浮子だけが見えている。かすかな漣(さざなみ)の中を、浮子が游いで行くような、そこだけが茫漠と霞むような眩暈(めまい)を覚えてくる。浮子が静かに浮き上がり、静かに沈んで行く。へらぶな特有の、前触れである。決定的な当たりの瞬間が、ついそこまで来ているのだ。
「来た」
ひとりでに声が出て、竿を引き絞る。今度は手応えが大きい。すぐに立ち上がったが、魚はなかなか寄って来ない。へらぶな釣りの鉤は、顎なしのスレ鉤である。真菰にひょいと当たっただけですぐ遁走してしまう。気を鎮めて真菰をさけて、徐々に魚を引きよせてくる。肝心かなめの急所である。
突如、落雷のような大喝が浴せられた。
「また来てやがる! 何度言ったら分かるんだ、この野郎!」
池の持主が現われたのである。
「貴様ら字が読めねえのか? 立札にちゃんと書いてあるだ!」
私たちは、もはや何も言うことはなかった。禁漁の字は、きちんと読めるのである。
「俺だって何も堅えこたあ言いたかねえんだ。悪いと思ってこそこそ釣るんなら、まだ可愛いところもある。どうせ釣師が釣るくらい大したこたあねえ、見逃してやってもいいんだ。それを何だい貴様ら、暗いうちから鉄砲ばんばん射ちやがって! あれじゃ、まるで、見廻りに来てくれと頼んでるみてえなもんだ。ひとをコケにするのも大概にしろ!」
おやじさんの言うこと、いちいち、もっともである。
「実は人に教わって、東京からわざわざやってきたんですが」
「東京だろうと長崎だろうと、ひとの土地へもぐりこんで人のもの獲るのは、泥棒じゃねえか。さっさと出て行けッ、この泥棒!」
私たちは、すごすごと竿を納めにかかったが、あまりにも好漁の前兆(きざし)が見えていて、ふんぎりがつかなかった。愚かにも、私が口をきった。
「あのう、これはほんの少しですが、お酒でも買っていただいて」
おやじさんの怒りが、頂天を突きぬけたのは当然である。私の手から千円札をもぎとると、地べたに叩きつけ、踏みにじった。
「銭が欲しくて言ってるんじゃねえ。何が何でも釣っちゃなんねえんだ、この野郎!」
その日は、面子丸つぶれで引き揚げたが、実は、墓場沼へは、前にも数回来ていたのである。見廻にぶつからなかっただけのことであった。
「魚を持って帰るわけじゃないし、入漁料とってもいいんだ。あれだけの釣場を、ひろく開放しねえという法はないよ」
などと、未練たらしくぼやいたりしたが、もちろん、これは逆うらみである。照れかくしの愚痴であった。
「泥棒はよくないけどさ、何とか正式の許可をとって、一度でいい、心ゆくまでのんびり釣ってみてえなあ」
愚痴はいつまでも尾をひいた。それほど、墓場沼は美しく魅力があったのである。しかし、頑固一徹なおやじさんには、誰もたじろぐばかりで、首に鈴をつけに行く使者は、ついに立たなかった。
長いこと経って、仲間の一人が情報をもってきた。安食の駅前に小さな電気屋があり、そこのおかみが、頑固おやじの近い親戚だという。そこで、私たちは、雁首を揃えて頼みに行った。
「とにかく、おやじさんに逢わせて下さい。いやらしい前科のお詫びもしたいし、直接、お願いもしてみたいんですけど」
「いらん、いらん、そんな七面倒臭いこと。そんなに釣りたかったら、釣んなせえ、おらがよう言っといてやるから」
そこまで言われても、私たちは安心がならなかった。おかみさんは、気さくに自転車を走らせ、すぐ帰ってきた。
「もう安心じゃ。明日は、一日中、見廻りはせんちゅうだよ」
ようやく天下晴れてお許しが出たのである。私たちは早速、一升瓶をおかみさんに託し、捲土重来、墓場沼に挑むこととなった。
その日は、春爛漫と晴れわたり、願ってもない釣日和であった。私たちは、禁漁の立札を前にして、堂々と、桜の土堤下に座をしめた。藻の中で、さかんに産卵(はたき)の音が聞こえる。記録的な大漁を夢見て、私たちは一人百円の会費をつのり、優勝者の総取りときめた。俗にいう「カッパギ」である。
浮子は実によく動いた。しかし、外道のじゃみ(小魚)ばかりで、へらぶなの寄る気配はない。魚は産卵に狂奔するばかりで、餌には目もくれないらしい。バシッ! ジャボリ! と、竿の下、つい手許の先でも、はたいている。餌をかえ、竿を取り換え、浮子を変えても一向に釣れてこない。たまりかねた仲間は、一人、二人と釣座を移した。土堤の下に残ったのは、私と、私の妻だけである。間もなく、第一号のへらぶなが、妻の竿に来た。八寸ぐらいの、腹を一杯にふくらませた、子持ちべらであった。
もう昼近かった。そこで一時、休戦となった。私は車の中から、ガスバーナーを取り出した。火口を二個並べた強力な奴である。これは、駐留軍の兵隊にたのんで、わざわざアメリカから取りよせたものである。当時としては珍しかった。飯を炊き、味噌汁をつくり、缶詰をあけた。飯はケチャップを炊きこんだ赤飯である。みんな思い思いに働いたが、何でもないひと言が、たちまち爆笑の種となった。
「草上の正饗」は、はじまった。春の日の燦々とふりそそぐ土堤の上には、満開の桜の花びらがはらはらと散りかかり、この世の憂さを忘れた笑顔が円陣を布いていた。私はいつまでも、この陶酔のひとときを忘れることが出来ない。釣りは、自然への回帰であった。
食事の跡始末が終わると、また、午後の戦いがはじまったが、ついにその日は、それっ切り、誰も、ただの一尾も釣らなかった。さすがに飽きて、昼寝をたのしむものが出た。春の日の午睡ほど快いものはない。しかし、私はその姿を憎んだ。
「もうお前なんかとは、二度と釣りに来ないぞ」
釣りというものは、一糸乱れず釣るべきものであり、漁獲の如何によって態度を改めるとは釣師の風上にもおけない。そんな風に思ったものである。のちになってみると、釣れない釣りは、やはりうんざりであった。当時はただ、やみくもにファイトがあったというだけのことで、腹を立てることではなかった。なおも一心不乱に頑張っていると、
「お忙しくなかったら、一服いかがですか?」
と、温和な顔をのぞかせたのは、釣りの大先輩の横井さんである。私を揶揄したわけではない。いつもの自然なご挨拶である。私は、ふっと、胸を衝かれた。私がとめどもなく執念を燃やしているとき、この先輩は、静かに、野点(のだて)の茶釜を振っていたのかと、俄に恥じ入ったのである。もともと私の母は名古屋の出身で、お抹茶には子供のときから馴染みが深く、有難く御接待にあずかった次第だが、その、横井魔魚さんも、先年、物故された。
近来、釣りのブームはいよいよ昂まり、釣りはスポーツであると言われている。それはそれで結構ではあるが、スポーツ即ち競技であり、勝敗であるとするのは、いかにも行き過ぎで、競技会のときは頑張るが、競技会でないとファイトが湧かないというのは、いかにもみすぼらしい。ブームを呼んだ原因が、この競技会形式にありとするひともあるが、私は、むしろ、功罪半ばすると見たい。釣りの例会などは、そこに祭典的な意味を重視してこそ、釣り本来の愉しさが浮き彫りされるのである。釣果の多寡によって勝敗を分けるのも、ひとつの賑やかしであって、根本的な優劣の基準にはなり難い。ヒットを何本打ったとか、百メートルを何秒で走ったとか、そこまで明確なデータは、いくら同じ土俵を用意してみても、釣りの場合つかみ得ないのではないか。
時代がいかに変わろうとも、私は、昔の流儀を変えたいとは思わない。墓場沼の、桜の下の釣りこそは、まさしく「釣り」であったと思う。
どうしたことか、その日は、珍しい貧果であった。午前中たった一尾で、私の妻がカッパイだのである。
一徹者のおやじさんは、約束通り、一度も見廻りにこなかった。