へら竿のすべて(8)
「玉口」を開ける
あと一回塗れば仕上りという段階あたりで、玉口に、差込の穴を開ける。玉口の糸も漆も相当に引き緊り、かなり肉薄(にくうす)に口を開けても十分に堪え得る強度が、もはや備わっているからだ。
玉口を開けるには、接合用の錐を使う。中抜きのときと同じく、ボール盤に錐を装着して回転させ、左手で竹のブレを抑えつつ、右手に持った竹を、玉口の方を下にして、上から押える恰好で開ける。
まず、差込み相手のコミの部分をノギスで測る。先端の細い部分から、最も太い差込完了線までの長さを、四つから六つに区分して考え、それぞれの太さの錐を、四種類から六種類、つまり、細い錐から順次、太い錐と交換しつつ、四回から六回かかって口を開ける。
要するに、雄に当たるコミのテーパーそっくりの穴が、雌に当たる玉口の内部に出来ればよいわけで、それぞれの錐をどのくらいの深さに使うかは、コミの、その錐の太さのところから先端までの寸法を計ればきまるはずだ。
一つの錐で開けたら、次の錐にうつる前に一王コミを差し込んでみて、現実にどの部分まで入るかを確認しつつ、作業を行うのが最も間違いのない方法だ。
玉口が全部あいたら、玉口用の丸い棒ヤスリで内部を整え、しっくりした完全な接合にまで持って行く。
完全な接合は、精巧な海苔罐の蓋のように、少し差し込んだだけで、もう風圧を手に感じ、次第に、滑らかなブレーキがかかりつつ、最後は、いつとなしに、軟らかく、しかもしっかりと締まる、あの感じだといわれている。コミの作業が完全ならば、接合は案外うまく行くはずである。しかし、なにぶんにも竹のことで、完全を期したつもりのコミの仕上げも、そう完全に行くとは限らない。接合の調整は、もっぱら目には見えない玉口の内部に係ることだから、この技術もまた高級な熟練を必要とする。大方の釣師が先刻承知のことと思うが、コミの入らなくなった玉口を素人が下手にいじくると、ギシギシ竿が泣いたりして収拾つかなくなってしまう。
簡単にいうと、歯科医が、上顎下顎の咬合(こうごう)のアタリを調節するためにカーボン紙を噛ませ、色のついたところを削っては何度も繰返す、あれである。ただ竿の場合は、カーボン紙が使えないから、差込んだ手応えと感じだけで、アタリ、つまり、コミのある部分が、玉口の内壁にある部分に特に強くあたって、接合を不完全にしている箇所を発見しなければならない。そして、そのアタリが最深部ならば、棒ヤスリは、最深部の、その目的の箇所のみに当るよう操作しなければならない。これは全くの熟練で、素人はどうしても口のあたりを削ってしまう。特に、中央部を浚(さら)うのは骨が折れる。
接合調整の場合、コミの方に手を加えることは禁物である。もともとコミは完成されているはずだから、玉口の内部だけを修正すれば、接合もまた完成されるはずである。
接合が終ると、元から穂持まで、現実につないでみる。穂先なしには、竿の調子など分るはずもないのだが、もともとその竿には、生地合せのときすでに調子の上の意図があったはずだから、その調子を胸に描きつつ調子をみる。
穂先
ここで、穂先の製作にかかる。もちろん、もっと早い時期につくることも可能だが、現物合わせで、測っては差込んで調子を見、調子を見てはまた測るというやり方が、最も合理的といえよう。
かねて乾燥貯蔵してある、真竹(まだけ)の割った材料(もの)を取り出し、荒火(あらび)を入れる。充分なヤキは後日に回し、曲り癖だけを直してから、小型の鉋(かんな)で削り込んで細長い角棒をつくる。竹の表皮はそのままにして三方を測るのである。鉋と限ったことはない、切出しナイフを使う場合もある。あるところまで細くなったところで節の部分をヤスリで四方からおろす。
これも、表皮は節の高みだけを削るにとどめ、主として三方から攻める。これは、節の部分だけは、鉋やナイフを受けつけず、ともすれば節の曲りなりに削れてしまうから、まず、ヤスリで前もって整えようというわけである。
あとは、ナイフを用いて少しずつ、四角のカドを削り、正八角形の棒に仕上げる。さらに十六画棒に仕上げ、次は平ヤスリを用いて、先細の丸棒に仕上げる。
もっとも、ハガネに大小ざまざまの、半円の刃をつけたものに、竹をあてがい、静かに軽く引くことによって仕上げる方法もある。また、引き抜きといって、大小ざまざまの丸い穴の中を引き抜くやり方もあるが、これは、どうしても粗雑に流れやすい。
以上が、穂先の、荒仕上げである。ただし、ここまでの仕事は、削り穂つくりの職人があり、需めに応じて売ってくれるので、材質を吟味の上、職人を指導して、思い思いに、荒仕上げの削り穂をつくらせ、そこから仕事を始めている竿師は極めて多い。
というのは、材料さえ良ければ穂先の生命は、主として、これからあとの削り込み如何に拘わるからで、長さの問題、太さの問題、テーパーのつけ方、そのいずれをどう按配するかで、穂先自体の調子はもちろん、竿全体の調子が微妙に変化してくる。竿作りの最後の、画竜点晴ともいえる非常に困難な、重大な難関である。
穂持の玉口の外径はすでにきまっているから、そこに接合のための口をあける。その寸法も自然に決定される。竿の長さ、継ぎの数にもよるが、まず平均、外径と一厘五毛~二厘差ぐらいであろうか。その寸法が、穂先の差込完了線の太さであるはずだ。穂先の尖端は、いずれも二、三厘であるから、差込完了線のあたりが、最も太い箇所であり、そこから尖端へ向ってテーパーをつけることになる。
昔、私の釣具店が始まった頃、うるさ方の釣師が店に集まって、いろんなへら竿の穂先のテーパーを、いちいちノギスで測って、図表をつくったことがある。目的は、旭匠師の名竿「孤舟」の調子の秘密は、どうも穂先のテーパーのつけ方にあるらしい。しからば、他の竿と比べてどこがどう違うのか、実測してみようということになったわけだ。そこで得られた結論は、大雑把にいって、一般の竿は、差込完了線の太さをピークとして、そこから中央部へかけて急角度にテーパーがついていること。それに反し孤舟は、差込完了線を少し上がった箇所でいったん一厘ぐらい太くなり、そこをピークとして、緩慢なテーパーが進行し、先端へ近づくにつれテーパーが急に落ちているという発見であった。
その頃の釣師は、その点だけを捉えて、よく、孤舟のような穂先をつくってくれと、他の竿師に注文を出したりしたものだ。いま考えれば、穂先の良否が、テーパーの分(ぶ)だけで決定されるはずもないのだが、日に灼けたいい大人が、真剣な表情で額を寄せ合った風景は、微笑ましく印象に残っている。
竿の調子の項で述べた通りだが、穂先の尖端にかかった力の負荷が、決して一箇所にとどまることなく、滑らかに穂先の方へ移動し、さらに、三番へ伝わり、いわば、竿全体のバランスで力を支える、その全体調子が、へら竿独自の調子でなければならない。逆な言い方をすれば、あんな細い削り穂の一部分だけの強度は、簡単な力でたちまち折れてしまうほど脆いものにきまっている。ちょっとした竿の操作のミスで、穂先が簡単に破損した例は数えきれまい。しかし、竿の全体調子として、振り込み、合わせ、取り込みを正しく行う分には、いかに大型であろうと、滅多に折れるものではない。そのように、全体のアンサンブルを支えるための、ひとつの部分としての穂先をつくらなければならないということになる。
取り込みに当って、竿先に加えられた力が、滑らかに手許へ移ってくる。振り込みに当っては、手許から穂先へ、さらに糸を伝わって鉤先にまで、力が滑らかに移っていくというバランスは、面白いことに、穂先一本だけについても言えることで、穂先の先端から下部へ、または、下部から先端への、力の支点の淀みない移行、力の支点がどこへ移ろうとも決してバランスを失わない調子の良さが、穂先作りの最高目標になるわけだ。
調子を見るには、片手で下部をもち、素振りをすることにつきる。振ってみて、どの部分に偏(かたよ)りがあるかを鋭く感知しなければならない。先端と下部を両手に持ち、先端の方から曲げてみる方法もあるが、これは下手にやると竹の腰を抜いてしまう危険な方法で、バランスの良否を、目で見て分るように人に説明する場合には便利だが、やはり、調子というものは、目で見るものではなく、体で感じるものである点からいっても、あまり感心できない。
穂先削りの仕上げは、平鑢で行う。平鑢は右手に軽く保ち、手に力を加えず、ヤスリの重みだけで、まんべんなく削る。台上で、あるいは台上の細い溝にあてがい、左手でゆるやかに廻しながら削る。やはり、皮の方を出来るだけ残し、肉部の方を落す。年期の入ったひとは、目で見なくとも、ヤスリの音と手応えだけで、今削っている場所が皮の部分か、肉の部分かが分るといわれている。また、いちいちノギスを頼らなくても、太さやテーパーの具合が、指先の感触ひとつでわかるとも言われている。扁平にならぬよう、どこもかしこも全部、真円に削り上げることはもちろんである。
削り穂が出来上がったら、火入れを行う。完全な灼き入れと、完全な曲り矯正を兼ねた、本格的な火入れであるが、なにぶんにも、竹の内部の露出した、繊細この上もない穂先のことだから事は面倒だ。うっかりすると、すぐに焦げて色がつく。もうそれだけで竹のセンイは破壊され弾力は枯死してしまう。ひどい場合には、炎を上げて燃え上がったりする。それが一瞬の手加減によるのだから怖い。かといって、臆病な、躊躇した火入れは、灼きが入らないばかりか、却ってナマクラにしてしまう。また、下手な矯正は、センイを折ってしまう。いささかの無理も聞いてくれないのが穂先の火入れだ。
要するに火造りだ、ということがここでも言われている。穂先の火入れは、特に、最上の火で行なわなければならない。どんなに良い素材も、どんなに絶妙の調子に仕上げた穂先も、火入れひとつで、腰抜けの愚鈍(こけ)と化してしまう。
弱い火ではない軟かい火、外部よりも内部にしみ通る強い火、口でいうのは易しいが、実際に火を作るほどむずかしいことはない。
下部の方は矯め木を使うが、先端の細いところは、指でやることになる。手の指の肌で感じつつ、軟かい圧力で矯める。
火入れを終ると、胴うるしを万遍なくすりこみ、拭きとって、ムロへ入れる。充分に乾燥した上で、今度は中火を入れる。灼きは充分に入っているはずだから、ムロの中で出た多少の曲りをなおす程度の矯め作業が目的の中心だ。この行程は、竿の部分と全く同じでよい。
次に、節の上に糸をまく。勿論、折れやすい関節部の保護のためだが、まっとうな穂先なら、この保護は全く必要がないと説くひともあって、節巻きのない穂先きを見受けることもある。
次は、穂先の突端に、蛇口(へびぐち)をとりつける。材料としてはいろいろあるが、今は殆どナイロンを使っている。
三号柄ぐらいのナイロンの釣糸二センチぐらいのものの中央に、蛇口の出来上りの寸法を見込み、そこから両端に向ってヤスリか小刀で、扁平にテーパーをつけて殺(そ)いでおく。
いっぽう、穂先の突端を両側面から、心持ち扁平に削っておく。その扁平な部分に、両側から、ナイロン糸の両足をあてがい、極細(ごくぼそ)の糸で巻きとめるのである。なにぶんにも仕事がこまかいので、よじれたり、はねたりして、慣れないと、なかなか綺麗には取り付けられないものだ。
別な方法としては、浮子の下部の繋(つな)ぎ(※注 1 )に使う、あの穴あきのナイロンの組紐にタンコブをつくり、タンコブのすぐ上で切り、ライターの火などで解(ほつ)れ止めをする。タンコブの下に一センチ半くらいの足を残して紐を切り、鑢を用いて足の先の方を薄く殺いでおく。穂先の突端をやや細めに円く削り、そこへ紐を差込み、その上から、細糸でしっかりと巻きとめる。この方が多少仕事は楽なようだが、どちらが蛇口として優れているか、これはおそらく趣味の問題ではないだろうか。どちらでもよいように思う。
次は、漆であるが、これは、竿の他の部分と全く同じである。
関節部と蛇口取付部の糸の上に、まず糸止めの生漆(きうるし)を塗る。乾いたら糸切りをして総塗をかける。コミの部分は通常残しておく。
ムロへ入れ、乾いたら研ぎ出しをして、その上に総塗をかける。これも最低四回から七回ぐらい、研ぎ出しと上塗りを繰返さなくては、よい仕事とはいえない。
穂先の漆作業がほぼ終ると、工程としては、ここで、他の元・元上・三番・穂持と、全く同じ完成度に達し、継ぎの各部の足並みが全部揃ったわけで、ここからが、いよいよ最後の仕上げということになる。
仕上げ
一〇〇〇番あたりの、目のこまかい水ペーパーで研ぎ出しを終ってみると、漆の表面はほとんど凹凸のない美しい平面となり、漆本来のぎらぎらした光沢は、ひっそりと静かに息をひそめ、滑らかな美しい涸(か)れ色を呈している。このまま仕上げた場合が俗にいう艶消しであるが、へら竿の殆どは、この上に拭き漆を行って艶を出すのが常道のようだ。
艶出しをする前に、さらにもう一度一〇〇〇番以上の、細かい粒子のもので、研ぎ出しを行う。普通、鹿の角粉(つのこ)をゴマ油などでポマード状にとき、軟かい布地につけて、丹念に磨く。漆の上ばかりでなく、竹の地肌の部分も丹念に磨く。
同じ目的で、上質の蝋色木炭(ろいろずみ)を用いる場合もある。木炭を適当な大きさに切り整え、竿の丸味に合せて、滑らかな丸い凹面の溝をつくり、その溝を竹に摩り合せるようにして磨く。木炭(すみ)の材質は、百日紅(さるすべり)がよいともいわれ、研ぎ出し材として漆店で売っている。良質の水ペーパーが発達するまでは、研ぎ出しの最初から木炭を使い、研ぎ進むにつれ、硬い木炭から軟かい木炭へと使い分けたらしいが、最近では、殆ど使わなくなっている様子だ。
これが終ると、ガソリンなどを布につけ、油その他一切の汚れを拭い取り、そして胴うるしをかける。胴うるしには、やはり、最も色の淡い上質の朱合(しゅあい)漆などを使う。
指に漆をつけ、竹を廻しながら、万遍なくすりこむようにして塗りつけ、軟かいモスリン等で、むらなく美しく拭きとり、そしてムロに入れて乾燥させる。充分な乾燥を待って、またさらに、同じようにして胴うるしをかける。
この最後の仕上げ漆も、最低四回ぐらいかけないと、深い奥床しい色艶が出てこない。拭きとりを強く、度数を多くかけることで、竹の地肌にもさほどの色がつかず、竹本来の美しい肌を殺さなくてすむ。
粗悪な漆と粗雑な作業の結果、どぎついギラギラした、不快な茶褐色に仕上がり、あたら品をおとす例はいくらでもある。
この他に、雑布(ぞうきん)拭きといって、たっぷりと漆をひたした布でしっかりと竿をつかみ、ゆっくりと竿を拭き上げて行く方法もある。
つまり、塗りと拭き上げを、同時に行うわけだが、これは、うっかりすると塗りむらを残し、なかなか熟練を要する。
充分に乾燥させてから、今度は、仕上げの最後の火入れ、俗にいう「上げ矯め」(あげだめ)を行う。乾燥したといっても、まだまだ漆は涸れ切ってはいない。新しい漆など火に弱いのであって、よほど火造りをたしかに、気を付けないと糸ごと漆を浮かせてしまう。
炎先(ほさき)の強い火は禁物で、やはり、上質の軟かい火でなければならない。もちろん、徹底的な灼きを入れることは出来ない。また、その必要もないわけで、ここでは、わずかに出た癖の矯正が限度である。大きく狂う場合は、最初の灼き入れが甘かった証拠で、ことここに至ってからではまず取り返しがつかない。
上げ矯めを行いつつ、接合の具合を改めて点検し、調整する。これは、漆の乾燥につれ、多少とも玉口が巻き締められて窮屈になっていることと、作業の途中、玉口の内部に漆その他ゴミが附着しているので、丸棒で浚う必要があるからだ。
また、竿を仕舞ったとき、どこかに当りを発見した場合は、これも中浚いをして調整しておく。
次は、口栓つくりだ。昔は殆ど竹で作ったものだが、近頃は木が圧倒的に多い。
竹は、熱、温度による収縮比が極めて少ないのに比べ、木は容易に収縮し、膨張する。なにぶんにも重要な玉口に関係のあることだから、はたして木の口栓が最適かどうか疑問であるという人もいるが、竿は出来るだけ一定の乾燥状況の下に管理されるべきだとすれば、同じ状況下の木もまた、一定の状況下に継続管理されているわけで、そう考えると大した問題点は残らなくなる。水に濡れた竿を、そのまま竿袋の中で蒸(む)らしておくような不心得な釣師は、口栓が抜けなくなっても自業自得というほかはない。
材料としては朴が一般的だ。本数を作る竿師は、あらかじめ、あらゆる寸法の口栓を木工屋に作らせておき、実際には、ほんの少しの摺り合わせで間に合わせている。しかし、精魂こめた竿には、やはり一本一本、口栓を作ってやりたいのが人情で、そうなると、気に入った材料を探す始末となる。たかが口栓、何だっていいじゃないかとする当世風が、いわば、へら竿への理解をさまたげているとも言えるのであって、原材の吟味、乾燥の苦心、たった一箇の口栓に、三十分もかけて、汗を流す竿師の心を、思いやる釣師はまず少ない。
朴のほかにも、あらゆる木が使われているが、やはり赤身が良い。木理(もくめ)の出たものは特によい。同じ朴でも、木理の出たものは貴重である。孤舟の杢(もく)の走った屋久杉の口栓など、心意気のほどが偲ばれてまことに嬉しい限りだ。
そうなると、竿袋まで凝りたくなる。しかし、市販の品にそれを求めるのは無理な話で、せめて竿袋ぐらいは、釣師がめいめい工夫をこらして、愛着の証(あかし)を立てたいものである。