へら竿のすべて(4)

2020年2月17日

火入れ


「火入れ」とは、竹を火の上で焙(あぶ)り、充分に軟らかくした土で、矯め木をあてて、竹の曲がりやねじれなどの癖を矯め直し、竹を真直ぐに伸ばす作業のことである。

 ひと口でいうと極めて簡単な判りきったことなのだが、火入れの実際は、極めて困難、複雑な要素に満ちていて、竿作りの工程の中では最も重大な、決定的な作業であるといえる。

 火入れについての考え方、特に技術が拙劣であれば、その他の作業が、いかに適切優秀であっても、その竿の価値は殆ど零(ゼロ)にひとしい。

 火入れが悪いと、使用するにつれ、その竹自体が本来持っていた曲がり癖などが再び現れてくるだけでなく、竹独自の弾性、粘靭性などの特性が殺され、その結果、俗にいう腰抜け症状を露呈して使いものにならない。

 もう少し詳しく、判りやすい説明を試みてみよう。

 火入れということの中には、大きく分けて二つの異なる作業が含まれている。

 ひとつは、文字通りの火入れ、即ち、灼(や)きを入れるということ、もうひとつは矯め、即ち竹を真直ぐに伸ばすこと、以上の二つである。

 矯め作業については、竹というものは決して機械的な円筒ではないということ、つまり、多かれ少なかれ、いびつであったり、ねじれていたり、凸凹(でこぼこ)していることを、まず、念頭に入れておく必要がある。竹が育つときの環境上の諸条件が、竹にいろんな癖を生じているわけだが、それは主として、俗にスジと呼ばれている維管束のひっつれ、ねじれ、ひっぱりによって起こっているのだから、その繊維の並びを真直ぐに伸ばすことが、即ち矯(た)めであるということ。端的にいうと、左図のX~Yの距離の間では、各繊維の長さは本来同長であったと考えてよく、したがって、矯めは、その竹の繊維の排列を本来の正しい姿に戻してやる作業である、ということにもなる。

 矯めの道具として、「矯め木」を使う。写真のようにPの部分を左手に下の方から持ち、竹を右手にもち、竹をQの溝の中にあてがい、左手の中指、薬指をのばして、竹のRの部分を矯め木の方へ引き寄せることにより癖を直す。この場合、竹を左手、矯め木を右手に持つ人もあり、それは、それぞれの習慣によることで別に深い意味はないと思う。穂先の最も細い部分は指でやる場合がある。


 矯め木は、赤羽の先の川口あたりへ行けばいくらでも売っているが、少なくとも撰り抜きの竿を志すほどの者は、殆ど例外なく自製しているようだ。

 材質はいろいろである。職業的な多作家は、消耗度が激しいところから、樫などの堅木を使うものが多く、桜なども愛用される。しかし、堅いものほど竹を傷つけ易いし、竹に無理な強制を加え易いために、わざわざ杉などの軟かいものを、特に、穂先や穂持などの華奢な竹のためには、朴や桐を用いる人さえあって千差万別だ。

 矯め木は、竹の太さ、種類に応じて各種用意しなくてはならないのは勿論だが、その寸法、特に溝の傾斜角度なども、作者によってまちまちのようだ。よくしたもので、矯め木ひとつ自製するにしても、矯めの技術が低くては、到底うまい矯め木はつくれないとされている。

 矯め作業の実際についていえば、竹が山で育ったときの自然の順序に従って、株の方から順次梢の方へ向って、繊維を押し伸ばしていくということになる。

 生地合わせの時、火入れのための、タメシロという余裕の部分が両端にとってあるので、実際に使用する分の最下端から最上端まで誤りなく矯正出来るわけだが、それにしても、末端を手に持ち、片眼をつむって竹のセンターをよく見透す必要から、最下端を少し上がった部分から始め、最上端まで伸ばし終ってから、竹を天地逆に持ちかえ、最下端の残った部分を仕上げる。

 この順序は非常に重大なことで、たとえば、梢から株の方へ及ぼすようなやり方は、竹の自然に反し、表面的な矯正は出来ても、内部の繊維の乱れはとても直し切れないとされている。

 意外なことに、すべての竿師がこのことを守り切っているとはいえないようだ。

 はじめ、梢の方を手もとに持ち、尖端の株の部分から順次下がりながら矯め、よきところで、逆に株の方を手もとに持ちかえ、以後は梢の方へ向って押していく人もある。これも理屈にかなっているといえる。

 矯めがいくら巧みであっても、竹は竹である。幾何学的な直線になり得る筈もなく、竹をぐるぐる廻してみて、しゃっきりと筋金が入ったように、狂いなくセンターがとれていればよいということだ。

 以上は、火入れ作業のもうひとつの要素、灼き入れということを全く度外視した説明だが、昔から、火入れは火造りであると喝破されている通り、矯めの真髄はむしろ、火造りであり、灼き入れにあるといっても過言ではない。伸ばし作業は、灼き入れに比べれば簡単なのであって、真直ぐにするだけなら、仮にも職業作家ならば、誰でもやっていることである。

 ただ、いったん矯正した竹が竿として完成された時、生き生きと素晴しいバランスを発現するかどうか、日に照らされ、水に濡れ、たびたびの激しい竿の操作につれ、再び昔の癖を現してくるかどうか、また、新しい曲り癖を生ずるかどうか、そこが勝負のきまるところで、そのためには、灼きが完全に入っていなければならないということになる。

 したがって、灼きの目的は、火に焙って竹を飴の如くに軟くし、矯正を容易にするための予備的な作業だけではない。真の目的は、むしろ、竹に灼きを入れることにより、竹自体の水分をとり、乾燥させ、竹の移ろいやすい部分を抑えて安定させ、ますます竹自体の独特の魅力を発揮させることにある。

 原竹を天日で乾し上げ、陰乾しにして長期にわたり管理してきた苦心は、この灼き入れによって完成されるともいえるのだ。

 灼きを入れるとは、俗に、人間についてもいわれる通り、根性を叩き直すことであるが、火で熱すること即ち灼き入れであるというような簡単なことでは、到底理解できないと思う。火は普通、熱度で考えられがちだが、それはむしろ理解を妨げることであるらしい。餅を焼く場合がよい例だ。火の状態によって餅はいろんな焼け方を呈する。内部はまだ固いのに、表面はもう真黒に焦げていたり、表面がまださほど色づかないのに、内部がもう軟らかくなっていたり、これは、トースターに入れたパンについても、魚を焼く場合、天婦羅を揚げる場合についても全く同じであって、いかに火というものが、ただ熱度の強弱だけでなく、微妙にいろんな働きを見せるものか、特に、刃物など、灼き次第で、切れ味に微妙な結果をもたらすことは、ご承知の通りだと思う。

 灼きを入れた竹の断面を調べてみると、表面はいくらも色づいていないのに、内部が驚くほど狐色になっていたり、内部が真白のまま表皮だけが黒焦げになっていたり、まことに、火入れは火造りなのである。

 竹の内部まで完全に火が浸透していて、しかも表皮は、かすかな美しい狐色にとどまるような火造りのコツを、まず会得しなくてはならない。単なる癖直しだけの目的ならば、スチームによる湯のしも行われているし、水とか薬品に浸けただけでも可能なのだが、釣り竿だけはどうしても火によらなければならない経緯は、大体判っていただけたかと思う。

 そこで、火鉢についてだが、普通、珪藻土で作られた七輪、関西でカンテキと呼ばれるものを使う。メーカーによって各種のものがあり、思い思いの型が用いられているようだが、最近では主として練炭用に作られているためか、いくつかの風穴をあけているものが多いが、これは、空気調節窓だけを残して全部塞がなければならない。

 火鉢の上部は、平に削りとり、そこに、やはり珪藻土(けいそうど)の耐火煉瓦を二つ並べて、火口を中央に狭めてつくり、その煉瓦の谷間を、竹を廻しながら往復させて焙ることになる。

 旭匠師は、煉瓦二本をさらに詮じつめて、キャップと称する、椀を俯伏せにした形のものを珪藻土を彫って作り、それをすっぽりと火にかぶせ、その中央に溝を掘って焙り口にしている。

 火は、経費と火持ちの関係もあって、コークスを使用する人が圧倒的に多いようだ。鰻を焼くときの樫炭、備長(びんちょう)を使ったり、練炭を使ったり、それらを独自の工夫で配合したり、中には特殊な装置を考案して、家庭用ガスや電熱を利用する人もあるときいている。

 それでは、どんな火造りが最もよいのか。厳密にいえば、火の良否は、灼きを入れるべき竹の個性によってきまるべきもので、人を見て法を説けの譬えの通り、ある竹には良い火も、ある竹には悪い火かもしれない。竹を見て火を造るとなると、竹の個性の千差万別だけ、火も千差万別あり得ることになる。火造りの要領をいくら教わってみても、一朝一夕に良い火が出来るわけがない。

 強いていうとすれば、甚だ抽象的だが、下部に、人間でいえば壮年の、安定した、精力的な、上向きの、実力ある旺(さかん)な火があり、その上に、それを抑えて、充分に熾(おこ)り切った切炭なりコークスがあり、その障碍物の間隔を縫って、万遍なく、平均した、強い、しかし軟かい火が、むらなく煽りなく、狭い火口(ほぐち)から立ち上る、ということになる。

 いかに火先(ほさき)が強くとも、全体としてはすでに盛りを越した下り坂の火、抑圧が利きすぎていじけた火、若い未熟な火、移り気で消長のはげしい火などは禁物と思ってよい。火造りもまた、火入れの達人にして初めてなし得るのである。

 火入れには、火を入れる時期によって、油抜き・粗火(あらび)・火入れ・中火・仕上げ火(上げ矯め)などがある。油抜きは、虫害予防をかねて、生地合わせ以前に行う場合もあるが、軽く火に焙っただけで、浮いてきた油を布で拭きとる程度にしておく。特に、高野竹はぬるぬると粘い油が浮くのでぜひ必要。矢竹に関しては、これをやらない場合もある。

 単に火入れと称しているものが最も重要な本格的な作業で、主として切組みを終ったあとで行う。灼きが強く入った竹は、もう二度と強くは火を受けつけない。決定的な結果が出るだけに、矯め作業も、灼き入れ作業も、この段階でのみ徹底的な効果をあげ得る。この際、粗火(あらび)と称し、強く決定的なまでに灼きを入れないで、予備的に軽く矯めておいてから、本格的な火入れにかかる場合もある。

 竹は不良導体であって、一部分に加えられた熱は、他の部分へは逃げていかない。これを計算に入れておかないと、竹は突如びっくりするような音をたてて破裂してしまう。矯めようと思う部分よりも、もっと先を、まず熱しておいてから、目的の部分を焙ることが常に必要になってくる。

 竹をくるくると万遍なく廻転させつつ火口の中を往復させ、竹が焼け焦げる寸前まで火を入れ、竹がぐにゃぐにゃに軟かくなった瞬間を捉えて、手早く一気に矯める。

 火から外すと、飴のように軟かい竹がたちまちのうちに、再び硬化してゆくから、焙っては矯め、また焙っては矯め、何度も繰返すことになるが、深い火は竹の方が何度も受けつけない。つまり、飴のようには何度も軟らかくならないから、一気に大胆に、的確に矯めるのが、最も手練を要するところで、彫刻家が、たった一刀の冴えに精魂を使い果たすのと似ている。うじうじといじくるような、提燈屋のなぞりは、却って竹の性根を殺し腰抜けにしてしまう。技術が抜群なだけでなく、余程の気魄を以て立ち向かわない限り、竹はなかなかどうして手剛いのである。

 火入れを終えると、タメシロを切り落とし、節抜きをやり、節の高い部分を削り、コミスリをあいたあと、胴うるしを塗ってムロで乾かす。そこで、多少の曲りがでるから、それを再び矯めるのが、中火(なかび)である。灼きが充分に入っていれば癖が戻ることも少ないし、ここではどっちみち強い矯めは行えないから、修正的な火入れということになる。中火は、一度の場合もあり、二度必要な場合もあり、ケースバイケースだ。

 そして、漆作業も全部終り、竿が仕上ったあと、仕上火(上げ矯め)を行う。これは、漆も美しく仕上がっていることであるし、特に漆が新しい間は火にも弱いところから、強い火は到底入れられない。中火以上に軽い火の、軽い矯めということになる。

 要するに、本格的な火入れの段階で失敗した竿は、あとどのように修正してみても、根本的にはその失敗をとりかえすことができない。

 火入れの良否が、そのまま竿の良否につながる重大なポイントであるだけに、名匠が火入れに取組む姿の厳粛さは、異常なまでの高まりを見せる。気合も充分、体調も爽快、雑念を去り、雑音をさけ、集中的に、疾風怒濤のように撃破しなければならない難作業で、その技術的な奥深さは、一生取組んでいても全くきりがない。心ある竿師は、いかに仕事がたてこんでいても、火入ればかりは絶対に人手に渡さないのは当然である。極言すれば、竿作りとは、明けても暮れても、火入れの神秘に挑戦する仕事だともいえそうだ。

 火入れが終ると、竹を洗う。水にひたした羅紗のうような布地に、磨粉をたっぷりつけて丹念に磨き、竹の地肌にしみついた汚れをできるだけ洗い落とす。濡れた竹は、よく拭きとって陰乾しにする。

 次に、「竹しめ」と称し、竹の両端に残してあったタメシロの部分を鋸で切り落す。

 元と元上(もとがみ)は節を揃えて全くの同長に、三番、穂持は、生地合わせの時の計画通りの長さに切り揃える。

 竹をしめる前に、もう一度、玉口や差込完了線の太さを比較検討して、誤算のないことを確認するのは勿論である。

 切口は、平鑢(ひらやすり)で平らに整えておく。こうして、ほんのりと火色の乗った美しい竹肌が、それぞれの組合せに従って立ち並ぶ風景は、まことに心温まる楽しいときである。