江戸前の釣り(5)

ふっこの寝浮子釣り

 五百匁ぐらいまでのすずきを、江戸前では、ふっこと呼んでいた。この、ふっこの寝浮子釣りは、ひどく瓢軽で、のどかであった。波のまにまに横に寝ている浮子が、当たりに応じて、先端をぴくぴくと、波の上にもち上げる。やがて、大きく立ち上がる気配を先取りして竿を煽るのであるが、釣りのむずかしさよりも、のんびりと浮子の動きをたのしむ豊かな釣りであった。
 江戸前の釣りには、古い由緒のあるものがあり、歴史を調べれば面白いと思うが、本来、私のような釣師には、多くを語る資格はない。その道の長老にこそ、詳しい話を伺いたいくらいだが、今や、江戸前の海は、汚染に次ぐ汚染、江戸前の釣りは殆ど潰滅してしまった。この現象を、どうにもならない時代の変化とだけ見て、甘酸っぱい懐旧も念に浸るにしては、私の憤りはあまりに大きいのである。
 今から十年も前のこと、女子供を連れてはぜ釣りに出たが、当時すでに、見るも無惨な化け物はぜが多く、満足な形のはぜも、油臭くて喰べる気になれなかった。また、二十数年前の、終戦直後でさへ、夢の島あたりを船でよぎると、山と積まれた塵芥(ごみ)が、燃え上がらないままに燻り、悪臭は眼にも鼻にも突き刺さり、私たちは、顔を蔽い息を殺したものである。江戸前の海、必ずしも清澄ではなかった。汚染の著しい徴候は、私たちにもすでに見えていたのだから、その道の専門家には、成り行く先の姿が、見えすぎるくらい見えていた筈だ。経済の伸びがあまりにも急激で、つい、後手に廻ったこともあるだろうが、そのための学問、そのための政治である。怠慢もいいとこ、人間無視である。
 つい先日、汚染廃棄の地点を、在来よりも沖合何キロ先に改正したという記事をよみ、改めて憤激したことである。都会の汚物処理が、海の沖合でなされること自体、隣家の庭先に汚物をすてることと変わりがない。
 人間の生活そのものが汚染されている時代に、釣の資源、環境の問題などは、末の末ではないかと、世間は一笑に附しているが、笑うひとたちが、汚染に慣れ、汚染の凄まじさに無感覚になっている。
 釣りは、漁獲だけのたのしみではない。自然の中に自らを没し、自らを浄める悦びである。汚染に対する釣師の感覚は、人一倍、鋭敏である。それだけに、怒りもまた強いのである。
 あの、風情あふれる江戸前の釣りは全滅してしまった。というよりも、全滅させられてしまった。これは、時の流れなどというものではない。政治の貧しさである。いかに着実に、人間の生活が破壊されてきているか、ということの証拠である。その任に非ずと知りながら、あえて江戸前の釣りに触れたのは、あまりにも厚顔無恥な、人間破壊に対する怨念からである。